「工学倫理」余録

藤本 孝

「工学倫理」が試行的に始まったのは平成13年度であった。各学科から担当者が出て、それぞれ1回(ないし2回)の講義をリレー式にするということで、物理工学科からのひとりとして私が出ることになった。初年度は私が担当したのは5回目だったと思うが、第1回からの講義を聴かせていただいた。配当が4回生後期、ということで聴講する学生の数を懸念したが、土木総合館の大講義室に立ち見が出るほどの盛況であった。単位目当ての学生はそれほどの数ではなく、純粋に好奇心から受講する学生がほとんどのようであった。じじつ、私の講義の時間には私の研究室の学生が何人も来ていたが、あとのレポートを出したのはひとりだけであった。私が聴講させていただいた講義はそれぞれ熱のこもったお話で、印象に残っている。中でも、故上林先生の情報のお話しは面白かった。高速道路ではすべての車のナンバーが通過時刻とともに記録されており、オウム真理教の犯罪が摘発されるきっかけになったのは、眼をつけられていた車の2年半前の記録から割り出され速度制限違反であった、という。「皆さんも2年半前の速度制限違反でつかまるかもしれませんよ。」というのがオチであった。

私自身は「近代科学技術と人間」というタイトルで話をした。われわれは科学・技術を職業とし、卒業生のほとんどは会社なり国なりに雇われた研究者・技術者として生きる。ところが、おなじわれわれが生身の人間としてひとびとの中で生きている日常生活と、このような職業生活の間にはかなりの段差がある。とくに自分が職業上の責任を直接に感じる対象は、現在・未来のひとびとではなく、基本的には自分の雇用者に限られる。この職業上の責任を感じる範囲を狭く限るというわれわれのあり方は近代科学の成り立ちと無関係でないだろう、という主旨から私見を述べた。中世自然学の宇宙観―ある意味では人間と宇宙が調和していた―を紹介し、デカルトがその世界観を破壊して、この世界を「モノ」の世界と「こころ」の世界に分け、前者から価値概念を放逐することによって無機的自然観を打ち立てたこと、それによってはじめて近代科学が成立しうる土壌が誕生したこと、スピノザの汎神論が近代科学の自然探究に情熱を与えたこと、などを述べた。

私は最初の2年間担当し、そこでつぎのだれかにバトンタッチするつもりであったのが、どうせ定年まであと2年、ということで引き続いてすることになり、都合4年間担当した。その4回とも内容は基本的には同じであった。

出席者は、出された3つの課題に対してA4判1枚のレポート用紙にそれぞれ短い答えを書き、それを担当者が採点することになっている。わたしの課題の第1は、「デカルトが近代科学の成立、そしてそれにたずさわる研究者・技術者のあり方におよぼした影響について述べよ。」というものであった。わたしが期待したのは、わたしの見解に賛成するなり批判するなりそれなりのまじめな取り組みを答えとして書いてくれることであった。最初の3年間はさまざまな理解度ながら、それなりの回答が多かった。ところが4年目、つまり平成16年度の答えは様変わりであった。多くの学生諸君が私の言ったこととは無関係に、デカルトの概説を書いてきた。もしや、と思ってYahooで検索すると、新潟大学の科学史の先生らしき人のホームページに載っている有名科学者の解説記事からの引き写しであることが判明した。それ以外にも、2,3のパターンがあったが、それ以上詮索する気も失せた。思うに、ちょうどこの年あたりから、なにかあればインターネットに飛びつく、というのが学生の間で一般的になってきたものと思われる。

私はこのことを腹に据えかね、何らかのことをすべきであろうと考えた。教務に電話して、「学生を叱る文章をワードで送ったら、各学科事務室に掲示するよう転送してくれますか?」ときいたら「いいですよ」ということだったので、以下の文章を送った。

レポート課題1に対して多くの諸君はインターネットからの引用を記載していた。このことを深く悲しむものである。理由は以下のとおり。

  1. 私は第一級の問題提起をしたつもりである。それと真剣に取り組むことを放棄して安易にインターネットに流れ、どこにでも転がっているような他人の文章を「自分の文章」として書くことは知的怠慢であるばかりか不誠実でさえある。
  2. 「倫理」とは自分の頭で考え、自分の心で判断し、自分の意志で行うものである。この精神に違反している。

このこととも関連するが、諸君の多くは「知的な人間」としての自己鍛錬が不足しているようにみえる。それを克服する努力をされたい。

最初に送った版には最後の文章に「そのために論理が幼稚である」という一言が入っていたが、あまりにも刺激的なので、それを抜いたものを翌日改訂版として教務に送った。その結果、各学科でこの掲示が張り出され(たはず)、学生たちは結構読んだらしい。あとで、工学倫理のお世話をなさっていた河合教授と立ち話したときに、掲示後、「自分の工学倫理の単位はありますか?」と教授室を訪れる学生が何人もいたと伺った。もっともひとりの学生が「自分はそうでない」ということから始まってまじめな探究をしている旨の長文のメイルをくれた。(「工学倫理」が単位が足らない学生の救済とみなされていることを憂い、必修とすべき、とも書かれていた。)

「情報は持つものではなく、取り入れるものである」というのはある意味正しいであろうが、大学教育として「情報」をいかにあつかうか、難しい世の中になったものであると実感した。

(名誉教授 元機械物理工学専攻)