新時代の工学教育―雑感―

工学部長 西本 清一

新時代の工学教育最近、デカルトの「方法序説」を読み返す機会があった。1997年に刊行された新訳本(谷川多佳子訳:岩波文庫青本〉である。大学に入って間もない頃、かじる程度に読んでから、早いもので40年余りの時間が経過した。当時、どのように読み、どのように理解したか、定かではない。人に薦められて読もうとしたのか、それとも旧き時代の学生・スタイルに憧れて、理解出来ようが出来まいが、そんなことにはお構いなく、格好をつけてデカルトを手にしたのか。いずれにせよ、遡って何かに行き着くような記憶の欠片も残っていないから、手応えのある読み方でなかったことだけは間違いない。こんな頼りない状態だから比較のしようもないのだが、このたび手にした新訳本は、勝れてロジカルなデカルトのことばを実に瑞々しく譜りかけるような調子で伝えて余りあった。名訳だと思う。

自然科学の基礎を修めた30歳前後の工学系博士課程修了者(またはそれと同等の能力を備えた者)のなかから、科学技術を組織的に活用して経済的・社会的価値を創出し、社会の持続的発展につなげる未来のトップリーダーを育成しようと、日産科学振興財団が文理融合型人材育成プログラム『NISSAN LeadershipProgram for Innovative Engineers(LPIE)』を立ち上げた。プログラムディレクターの竹内佐和子先生(外務省参与・工学研究科特命教授)からお誘いがあり、プログラムの構想段階からお手伝いしている。書類選考と面接を経て、競争率3倍を超える志願者のなかから選ばれた大学や企業に在籍する若い研究者、技術者を中心に、合計19名が一堂に会して、7月21日から25日までの5日間、合宿形式の第一回インテンシブプログラムが実施された。これらの受講生のなかには、京都大学の工学部出身者、および関連研究科に在籍中の教員や博士課程め学生も数名含まれている。

NISSAN LPIEの開校式で受講生との直接対話に臨んだカルロス・ゴーン財団理事長は、エンジニアリングとマネジメントの関係について語り、両者に共通の基本的な要素として合理的な判断が重要だと指摘した。フランスのエコール・ポリテクニークからエコール・デ・ミーヌに進んで理工系教育を受けた自身の経験に照らし、「理工系で最初に学ぶことは含理性です。事実を正しく把握して、既成概念や感情に囚われず、理性に基づいて判断するアプローチです。優れたエンジニアは優れたマネージャーの素質を備えています。マネジメントでは、事実を認識すると同時に、時代の趨勢を見極めること、そしてプライオリティをつけながら計画を実行に移し、最終的に現実を変革することが大切です」と、次世代のリーダー候補たちに向けて熱いメッセージを贈った。

初日夜のレセプションを終えたところで、ほろ酔い気分の受講生全員に「方法序説」の文庫本を配付し、翌朝までに読破するよう求めた。別に前もって示し合わせてあったわけではないが、ゴーンさんのメッセージは、「方法序説」を読めば一層理解が深まるはずの内容であった。2日目午前に組まれた教養セッションは筆者の担当になっていた。思案の果てに、受講生は自然科学の基礎をひととおり修得している前提だから、自然哲学の歴史を概観しようと思い立ち、その参考書として「方法序説」を事前に読んでもらうことにしたのである。教養セッションでは、自然科学におけるふたつの系譜一生気論と機械論一を偲鰍し、デカルトによる精神と物質の二元論、さらに物質における要素還元論を歴史的に位置づけたうえで、後生が繰りひろげたデカルト主義と反デカルト主義の論点を整理して示した。自然探求におけるデカルト流の方法論をどのように評価するかは受講生自身に委ねられる。このように自学自習を基本方針に据え、受講生たちによるグループ討論を通じて自ら課題を設定し、そのソリューションを創出していく取組みが今後9ヶ月間に亙って続けられる。「サステイナビリティ&ヒューマニティ」の実現が取り組むべき基本テーマである。

まえおきが長くなったが、20世紀後半に専門分野の深化の一方で急速な細分化が進んだ工学の教育において、科学史のようにパースペクティブな知識の修得が今ほど必要不可欠になっている時代はないように思えるのだが、どうだろうか。それも単に自然科学の変遷を時系列的に辿るだけでなく、「歴史に学んで未来を予測する」歴史家の視点が求められる。18歳で入学してからほぼ10年間を学生として、その後は思いがけず教員として教育と研究に従事し、今日まで40年余りを工学部で過ごしてきた。この間に蓄積した教育研究の実践経験は、「方法序説」を改めて読んでみて、より深く読み込む糧になっていると実感し得た。科学史ないし科学哲学の講義は全学共通教育科目として配当されているのであろうが、工学部各学科の専門性を科学哲学の変遷に照らして傭鰍的に位置づけるためには、出来ることなら、工学部教育に長年携わっておられるベテランの先生がたにこそ、工学のためのユニークな科学史あるいは技術史の講義をしていただきたいものである。

言うまでもなく、工学は自然科学の蓄積を活用して、実用的な社会的価値につながる技術を産み出す学問分野である。工学の多くの専門分野で数学と物理学が基礎になっている。16世紀から17世紀にかけて、科学上の発明・発見が相次いだ「科学の時代」を生きたデカルトは、普遍的な学問の「方法」として、数学の考えを基礎に据えた4つの規則(明証の規則・分析の規則・総合の規則・枚挙の規則)を定めた。デカルトの哲学によれば、科学あるいは科学的知識は疑いを挟む余地がない明晰性を根底においており、その本質は数学的構造そのものにあると主張したのである。観察対象となる物質を構成要素に分解するとともに、単純な要素を総合して複雑な系に到達し得るとする要素還元主義に基づくデカルトの機械論的世界観は、ニュートンに引き継がれ、近代科学あるいは近代合理主義思想の中心原理となっていく。その哲学的基礎構造は、やがて20世紀になって爆発的に発展した自然科学研究の基本的パラダイムを成してきた。しかしながら、要素還元主義に立つ機械論科学が偏重された結果、学問分野や科学技術だけでなく、社会システムまでもが細分化の傾向に陥った弊害を否めない。他方で、「数学的知識以外の知識はあり得ない」とし、少なくとも自然科学の世界から人文学や歴史など、文字の学問を完全に切り離してしまったデカルトの認識論は功罪相半ばする。文理融合の伝統をもつ京都大学の工学部教育が果たすべき役割は大きいと言えよう。

20世紀から21世紀への移行とともに、単なる物理的な時間の流れと位置づけることができないほどの大きなパラダイムの転換が起こりつつある。その過程で科学技術文明がもたらした負の側面が顕在化するに及び、新たに派生し未だ明確なソリューションを見いだし得ない諸問題の根源をデカルト以後の近代科学の方法論に帰するような、批判的見方が生まれている。近代科学におけるパラダイムの位置を独占してきた還元主義的機械論科学の方法の有効性と限界について、漸く再検討が始まっているのである。

20世紀前半から中葉にかけては、工業技術の発達と成果が自然環境に大きな負荷を及ぼした時期である。工業的に産み出される人工的な物質の多様化と量的拡大は、自然環境の破壊につながる原因物質の急激な蓄積を招いた。筆者が大学に入学した1966年には、自然環境の破壊はすでに大きな社会問題化しつつあった。近年、地球規模の視点に立ったエコロジカルな循環型社会の構築が求められるようになり、再利用可能な商品や再利用が容易なシステムの開発、環境に調和した都市基盤のデザインなどが工学の新しい研究対象になっている。

世を挙げて「日工連携」の研究プロジェクトが花盛りである。工学がストックしている原理や要素技術は、医療分野に応用可能であり、大きな成果が期待されることは確実だろう。しかしながら、デカルトが心(精神)を切り離して機械と見倣した人体に近づけば近づくほど、事はそう単純ではなくなる。有機的な生命現象は工学原理をそのまま適用出来るような対象ではないことに気づかされるのである。

環境や医療に対する工学の応用例に見られるような現代から未来につながる持続的社会の実現に向けた研究課題に対しては、還元主義的機械論科学の有用性を駆使するとともに、その限界を見極め、科学技術のイノベーションを逓じて社会的価値を生み出すことが求められる。いずれも科学の新パラダイムを基礎にした工学教育が必要な分野であろう。

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国立大学の法人化問題が浮上したころ、大学に対する市場化論がマスコミ界を賑わしたことがある。学生は教育の買い手であり、大学は教育の売り手であって、受益者である学生が必要経費を負担するのは当然であると言うのがその主な論点であった。しかしながら、国の税で賄われる国立大学の場合、学生だけでなく、家族や雇用者、さらには社会全体(納税者)も高等教育の受益者であり、それらを代表する政府が資金面で責任をもたなければならないのである。事実、どこの国でも、社会が必要とする高度な教育・研究を実施する大学については、国家や社会の基本的な基盤として国が責任を負っており、国家機関性の高い組織になっている。このような「高等教育=国のコスト」とする視点は、外形的な費用対効果(Value for Money)を追求する「独立行政法人」制度とは別に、新たな「国立大学法人」制度の導入を主張する根拠のひとつになった。

サッチャー政権下の英国で、1992年に有名な大学改革が始まった。英国の大学評価機関の関係者が下記の一文で始まる講演をしたことがある。英国の国民性を表しているように見えて、実は大学改革の困難さを象徴しているように思われる。

Britain is a very conservative nations,slow to change and anxious to preserve ancient institutions.

1992年当時、ケンブリッジ大学の教授や講師たちは、「こんな大学改革には付き合っていられない」と、昼の日中から酒を飲んでいたと言う。ところが、タイムズ社が毎年公表している「The Times GoodUniversity Guide」の大学ランキングにおいて、ケンブリッジ大学はオックスフォード大学と毎年トップの座を争っている。ケンブリッジ大学は、外部から事あるごとに批判の的になっていたチューター制度に基づく個人教育を堅持し、他方で外部との連携研究を積極的に推進することにより、市場から高い評価を得ているのである。ケンブリッジ大学やオックスフォード大学のGood Practiceに学べば、国立大学法人化を経た京都大学および工学部が採るべき姿勢は、社会に迎合するのではなく、社会をリードするような取組にエネルギーを注ぐことであるように思われる。

京都大学は、その基本理念や長期目標の実現に向け、第1期中期目標期聞(平成16年度~平成21年度までの6年間)を通じて、教育の質的向上に取り組むために下記の中期目標を掲げている。
・豊かな教養と人間性、さらには強固な責任感と高い倫理性を涵養し、国際的視野とコミュニケーション能力を備えた人材を育成する。
・(基礎研究を始めとする多様な学術研究を推進するとともに、)社会・経済の変化に対応し得る幅広い視野と総合的な判断力を備えた専門的及び学際的人材を育成する。

教育の成果はすぐに現れるものではない。理系教育の例で言えば、「科学技術のイノベーションを通じて経済的・社会的価値の創出につなげ得る人材が10~20年後に育っておればよい」と目標を設定するような息の長い取組である。工学部の学生として学び、また教員として教育に携わった40年余りの期間に、自らが培った所産をそろそろ次世代にバトンタッチすべき年齢にさしかかってきた。新時代に求められる工学教育の在り方について、ここらで真剣に考えたいと思っている。

(工学研究科長・工学部長)