21世紀は資源争奪の時代

芦田 譲

芦田 譲エネルギーを考える時に、どこに(陸上、海上、消費地までの距離等)、どういう形で(固体か、液体か、気体か)、どの位の密度であるかが問題である。たとえば、太陽エネルギー、海水中のウラン、金等の資源は全体としては大量にあるが、密度が薄い。したがって、凝集するのにコストがかかる。一方、ウラン鉱床、金鉱床は地球が長年月かけて凝集してくれたお陰で鉱床を探しあてれば資源として利用することができる。資源とエネルギーの違いはコストである。資源として存在していても、コスト的に採算がとれなければエネルギーとしては利用できない。資源とエネルギーを峻別する指標としてEPR(Energy Profit Ratio)がある。これは出力のエネルギーを得るのにどれだけの入力のエネルギーが要るかという値である。1 なら損得なし、1 以下から損失、1 以上なら利益が出ることになる。現在、日本近海に賦存すると期待されているメタンハイドレートはEPR から考えると資源ではあるがエネルギーとしては利用できない。

最近の油価の高騰を受けて、オイルピークに関する議論が盛んに行われている。オイルピークとは世界の石油生産がピークを迎えたというものである。1930 ~ 2004 年までの石油の発見量と生産量をみると、発見量のピークは1967 年であり、1982 年には発見量と生産量が同量になり、その後は1990 ~1999 年の期間における年平均の発見量と消費量をみると、発見量(60 億バレル)の4 倍もの量(250億バレル)を消費している。

石油の究極埋蔵量の予測に対しては、一番悲観的な説は1.8 兆バレルだとし、一方、楽観論はアメリカの地質調査所で、3 兆バレルだとしている。1.8兆バレルで可採年数が41 年だとすると、3 兆バレルを単純に比例計算すると68 年になる。41 年が68年になるだけで時間稼ぎはできるが根本的には変りはない。石油がなくなっても天然ガスがあるという話がある。天然ガスは石油ともともとでき方が同じである。天然ガスの可採年数は悲観論者は65 年だとし、楽観論者は130 年だとしている。可採年数とは確認埋蔵量をその年の生産量で割った値であるから、石油が少なくなって天然ガスをどんどん使い、例えば、生産量が年間5%にずつ増えていくと、130 年といっても40 年になる。

現在、油価は$ 60/ バレルと高値がついている。この原因については、投機筋の思惑、カトリーナの被害等による一時的なものであり、またその内下がるだろうという考え、あるいは、アメリカの製油能力不足によるとするもの、さらには石油の生産能力の限界による構造的なものであるという考えまで様々である。石油の供給量については、北海油田の減退が予想以上に激しい、サウジアラビアの油田に水がついてきている。一方、需要についてはBRIC’s 諸国、特に中国、インドの近代化により急激な需要の伸びがあり、今後それはさらに大きく伸びると予測されることから需要と供給とのバランスによる構造的なものであると考えるのが正当であろう。

資源の枯渇問題は、石油・天然ガスに限らず、石炭および金、銀、銅、鉄等の金属資源、液晶材料のインジウムや燃料電池の電極触媒の白金等のレアメタル、さらに食料、水等にも及んでいる。

従来のエネルギーは高いエネルギー密度で存在し、市場が形成され高収益である。一方、自然エネルギーは広く分布し再生可能であるが、低エネルギー密度である。したがって、低収益であり、市場競争力も弱いが、環境へのメリット、地域、地域経済への貢献が期待できる。今後は、地域のための地域のエネルギー、食糧の地産・地消を目指した自給自足・地域分散型社会の構築が必要である。そのために、地域の特性を把握し、地域で活用できるエネルギーを活かし、20 ~ 50 万人規模の中核都市を形成すべきである。

石油、天然ガスや石炭は地球が数千年から2、3億年をかけて作りあげたものである。我々は、それをこの100 ~ 200 年の間で使用し、現在の文明を築いてきた。しかし、地球も含め全て有限であり、有限なものには必ずその生産、使用の段階においてピークがある。ピークとかバブルはその真っ只中にいるときはそれと気付かず、それが過ぎたときにあのときがピークだったとかバブルだったと気が付くものである。したがって、先を予測し、リスクマネージメントを行い対策を練らなければならない。環境破壊という負の遺産を残し、後世の子孫から20 ~21 世紀の人類は何ということをしてくれたのかという非難を受けないようにすべきである。

京都大学が総合大学としての特性を活かし、今後の人類の存続に向けての研究を指導的に実施されることを切望するものである。

(名誉教授元社会基盤工学専攻)