思いのままに

武田 信生

武田 信生「どのようなことでも結構です。」という、ありがたいお言葉をいただき、わがままで、勝手な、生意気なことを書かせていただきます。

私が工学部に入学した当時、前期1,2回生のあいだは教養課程で、主に第二外国語の選択によってクラス分けされていました。私は衛生工学科でしたが、同じクラスには土木系、機械系、電気系、化学系(土・機・電・化)の同級生とミックスされていました。このことは今から思うと、それぞれの志望に沿った“ 思考様式”を知るのにはとてもよかったと感じます。現在、地球系は地球系で幾クラスか、化学系は化学系で幾クラスかといった構成になっており、いろいろな、特に事務的な意味で便利だとは思いますが、折角の総合大学、フルラインの工学部としてはもったいないことだと思います。社会へ出たとたんにいろんな人と付き合わなければならないのに、会話もできない、言葉も分からないでは惜しいことをしていると思います。

当時の学生気質で私が感じたことを幾つか申し上げたいと思います。
女の子のことを話す時にはMadchen、お金のことを言う時にはGeld と、覚えたてのドイツ語単語を使いました。前者は恥ずかしさ、後者は卑しさを隠すためだったように思います。遠慮会釈のなくなった今日ではどちらも理解されることはないでしょう。

同級生の中に予習・復習を欠かさない学生がおりました。しかも彼はアルバイトに精を出しており一日3 時間も寝ていないといわれていました。わけが分からなかったのですが、彼と親しくしていた友人から、実家へ仕送りをするためだと聞き衝撃を受けました。ほとんど(すべて)の学生が仕送りを受けていたのに、彼は仕送りをしていたのです。そんな学生がいる時代でした。

7月を迎えると夏休み。中学・高校と違って早くから始まる夏休み。学割証明をもらって旅行計画に忙しい仲間たちでした。私は事情があって旅行はしませんでしたが、学割についての考察はしました。学割で安くなった分は誰かが負担しているはずであると。通勤に汗を流しているサラリーマンは高い定期券を買わされているはず。当時は国鉄が中心で、その赤字は税金で補填しているはずだから、毎日汗を流しているお百姓さん…が負担しているはずである。しかし、誰も文句を言わない。なぜ。ただ一つ用意ができた解答はこうでした。国民諸氏は学生が休みを利用して広く旅して、ものを見てほしい。そのためには負担してもいいと。そのように思ってくれていなかったら、学割を使う学生は駅で袋叩きにされてもいいはずであると。今は、学生であることはひとつの「権利」になっているようです。学割の率も低くなったようですし、当てにする学生も少なくなったようです。何より、学割をしている肝心の鉄道会社も理念があるのかどうか分かりません。

このように甘やかしてもらって大学へ来ていたものですから、いやでも「公」の気持ちが養われました。卒業証書を貰ったら何か社会にお返しができればと。もちろん、「京都大学卒業」をパスポートと考えていたことは否定しません。しかし、それは社会へ出て借りを返すための門を通過するpassportとしてでした。今、どうでしょうか。passport が目的になっていないでしょうか。

京大の研究室体制はよくできていると思います。基本的には教授・助教授(准教授)・助手(助教)が院生・学生とともにユニットを形作るシステムです。私は上司がお若くて厳しくピリピリされているあいだ、(自分がいたたまれなかったからでしょうか)ノンビリ(した振りを)していました。自分もピリピリしていたら学生の行き場がなくなると思ったからです。上司教授がひととしとられ、丸くなって甘くなられてからは厳しく構えました。スタッフが皆甘くなったら研究室の崩壊しかありませんから。教育というのは行ったり戻ったり、押したり引いたりだと思うのです。相手とする学生はふつう、18 歳から22(24,27)歳の多感の人なのですから。

京都大学は巨大な大学でした。40年近く暮らしながら足を踏み入れていない土地、建物、組織、知らないところの方がまだまだ多いのですから。それは空間的な記述としても、とてつもない分野、とてつもない人材が拡がっている、そういう意味で巨大だと思いますし、誇れることだと思います。こんなことをやっているところはないだろうと思っても、ちゃんとその分野はあるし、人はいるし、です。ノーベル賞を獲る人もおられるし、私のような凡人を40 年近く養っていただく雅量があるし、です。裾野の広さが京都大学の強さであると思います。猫の眼のように教育・研究行政が変わっても、すぐについて行けない慣性力は、強さの重要な要素のように思えます。御蔭通に雪が舞っていても、丸太町通に陽が差すことは強みだと思います。

教授に昇進し、はじめて教授会に出席した時に、顔見知りのベテラン教授から声をかけていただきました。「武田さん、心配しなくてもいいよ。僕だって三分の一くらいはよく知らない先生方なんだから。」「教授会で最初に紹介を受ける時には、四方に頭を下げなさい、その時に<どうぞよろしく。>などと声を出さないように。これは黙礼なのだから。」とは同じ教室、学生時代にご指導を受けた、当時すでに退官されていた教授の教えでした。

何代か前の研究科長は仰いました。「自分が教授になった時、<教授になって一番大事なことは、教授会に出席することである。>と教えられました。結局、一番大事なことであったと思います。」と。

教授会では、全く分野の違う先生がどのような研究をされているのか、この分野では今、このようなことが先端的に問題になっているのか、ということを学ぶことができました。学内行政に関するはなしの時には、ほとんどの教授が眼をつぶっていますが、居眠っているわけではなく、耳にフィルターをかけながら必死で大事なことを聞き逃さないでおこうとしているのです。吉田、桂、宇治、熊取…、殊に今は吉田と桂のキャンパスが工学研究科において統一されていない困難さがありますが、できるだけ早く統合されて月例の教授会が開かれることを願うものであります。

検察が起訴するかどうかの決定は(今でもそうであるかは確認していませんが)、検察官個人の権限だそうです。合法的に人を死に追いやることに繋がる可能性がある権限を行使するのですからこの緊張感たるものは大へんなものでしょう。教授は、たとえばある論文を学位論文として諮るか、ある人事を諮るかの責任を個人として全人格を賭して負うべきでしょう。残念ながら協議会方式では、この緊張感を保つことはむずかしいような気がいたします。

好きなように申し上げました。3月に定年退職いたしましてから、ある新聞でしたか、ひとつの川柳に出合いました。メモしていなかったものですから、一言一句正確であるかどうか分かりませんし、引用させていただきました原作者に謝意も表せずに申し訳ありません。

「定年で 背中の三ざる 野に放ち」
(詠み人あり、されど知らず)
* 三ざる(猿)=見ざる、聞かざる、言わざる

(名誉教授元都市環境工学専攻)