オレフィンメタセシス国際会議(ISOM)雑感

増田 俊夫 / Lajos Bencze

増田 俊夫

増田 俊夫

Lajos Bencze

Lajos Bencze*

中規模の国際会議は、大規模の国際会議と比べて独特の楽しみがある。例えば参加者の多くがお互いをよく知っていてFirst Name で呼び合っているし、講演会場も1つに絞って行うことができる。ここでは、その好例としてオレフィンメタセシス国際会議(International Symposium of Olefin Metathesisand Related Chemistry; 略称ISOM)について紹介したい。この会議の第1回目は1976年にドイツのMainz で開かれ、その後通常2年に1回世界各地で開かれてきた。2005 年には、この会議の重要人物で多数のwell-defined 触媒を開発したGrubbs とSchrock、そしてこの反応の正しい機構を最初に明示したChauvin がノーベル賞をもらったため、「この分野でいくら研究してももうノーベル賞はもらえないよ」とジョークを言う人もいる。筆者の一人であるBencze は第1回から15回までこの会議に参加し(そのうち第10回を組織・運営)、増田は第11回から最新回である17回まで参加した(そのうち第15回を組織・運営)。本稿ではこの会議並びにこの研究分野について、他の分野の方にも興味も持っていただけるよう一般的な印象を含めて紹介したい。

まずオレフィンメタセシスという反応はどんな反応かについて簡単に説明させていただく。この反応は、関連特許(1957年)が先行したが、論文としては環状オレフィンであるノルボルネンの重合即ち新規高分子合成に関して1960年に発表されたものが最初である。その後1964年にBanks とBailey によって適当な固体触媒の存在下でプロペンからエチレンと2- ブテンが生成する反応(トリオレフィンプロセス)が発見されているが、これが一般的な有機反応としてのオレフィンメタセシスの最初の例である。このようにオレフィンメタセシスという反応が、通常の有機反応ではなく高分子合成反応において最初に見付かったということは興味深い事実である。しかし、この高分子合成反応はZiegler-Natta型触媒により、一方有機反応は担持酸化物触媒を用いて一般に行われてきたため両者が同じ反応であるという認識は乏しかった。1967年にはCalderon が重水素を用いた見事な実験によりこの反応では二重結合が開裂することを明示した。その結果オレフィンメタセシスという言葉が使われ出した。しかしながら彼の提案した擬シクロブタン中間体機構は残念ながら間違っていた。1971 年にフランス石油研究所のChauvin が金属カルベン機構を推論したが、これが結果的に正しいことがわかり、一般に受け入れられるようになった。

ISOM の第1回会議はHoecker 教授の組織により1976年1月22、23 日にドイツのMainz で開催された。約50 名の参加者があり次の3 つのテーマで14 人が講演した。重合、ポリマー構造(Kerber,Csanyi, Pinazzi, Witte, Chauvin);触媒、反応、理論(Teyssie, Basset, Mortreux, Moluijn, Warwel,Bencze, Hoecker, Petit);不飽和エステルのメタセシス(Boelhouver)。1976年はメタセシス反応の機構が既に確立した時期ではあったが、まだメタセシス反応に対する一般の認識は低く、Hoecker の意図はヨーロッパ内でのメタセシス反応に関する情報の普及であった。

第1回会議に出席していたChauvin に対する印象は非常に物静かな研究者であるということである。筆者の一人(LB)がこの学会に出席中第1日目にホテルへ行くバスの中で彼と交わした会話は次のようであった。Bencze: シンポジウムのホテルへ行くところですか。Chauvin: ええ。Bencze: そのホテルへの行き方を知っていますか。Chauvin: ええ。彼の研究は純粋で先駆的であったが、センセーショナルなものではなくISOM も最初の数回出席しているが、講演の記録は第1回目しか見あたらない。ノーベル賞の通知が来たとき、既に75 才であり受賞の仕事は随分以前にしたことなので辞退したいと最初は言ったという。彼のノーベル賞受賞対象となった1971年の論文はフランス語で書かれていたため、1976年の第1回ISOM の参加者でもこの論文を知らない人がおり、認知に時間がかかった。1970~77年の間には反応機構に関する様々な研究が展開されたが、重要なことは彼が正しい反応機構を提案した最初の人物であるということであり、ノーベル賞とはそういう人に対して与えられるものであることを強く認識させられる。一方、ほぼ同時代のCalderon の活躍は華々しかった。企業(Goodyear)で業績を上げシンポジウムでも活躍し多くの若手を育てた功績は大きい。何かにつけてChauvin と対照的である。

第2 回会議はその翌年の9月19~21日にBoelhouver 教授が組織して行われた。出席者数は74 名であった。この回からアメリカ人の発表も見られるようになった。第3回は1979年にBasset 教授が組織してフランスのLyon で開かれている。講演数30件、参加者数103名でアメリカ人の出席者(Casey, Green, Grubbs, Katz, Schrock ら)も既にかなり見られる。ヨーロッパとアメリカの間に情報の壁がほとんどないことが伺い知れる。その後第8回まではいずれもヨーロッパで参加者数数十人の規模で4、5日の会期で、講演は1 会場でそして応募発表は主にポスターで行われている。第9回(1991)に初めて開催地がアメリカへ移動し、Schrock 教授の世話で開催されている。第10回までアジアからは毎回僅かな出席者があったのみである。このことからも20世紀後半に展開されてきたメタセシス反応が欧米を先陣として進行したことが明らかである。

第11回(1995)の会議はイギリスのDurham で開かれた。この町は大きな寺院が一つある以外は特に何もない、蛇行した川に囲まれた小さな大学町で、参加者は全員1072 年に建設されたという古城を使った学生寮に宿泊し貴重な経験をした。このときの全体の参加者数は162 名であったが、欧米以外からの参加者は僅かであり、日本からの参加者も3名に過ぎなかった。Grubbs はルテニウム触媒を始めて間もなく、6族の古典触媒を含めいろいろな触媒やモノマーが報告された。次の第12回(1997)の会議はフロリダ州のSt. Augustine で開かれた。St.Augustine は16世紀半ばにスペイン人が入植したアメリカ最古の町で大西洋に面した観光スポットである。ADMET 重合を開発したWagener 教授の世話で開催され、Ivin 教授の総合講演に始まり、種々の触媒を用いた高分子合成や有機合成の発表があり、オレフィンメタセシスに限らずポストメタロセン触媒なども発表された。

第13回(1999)はオランダ南部のKerkrade という田舎の修道院で開催された。通常この学会はISOM第X回と略称されているが、この回は ISOM' 99 となっている(東洋人にはISOM' 99 の方が響きが悪いように思うが)。この学会は規模が小さいので、最初から最後まで出席する人が多いが、とりわけこの回はエスケープすることが不可能であった。また以前にはこの学会は高分子合成が多かったが、この頃から有機金属と有機化学の分野の参加者が相対的に増えてきた。第14回(2001)はSchrock 教授 とHoveyda 教授の世話でMIT で行われた。Schrockの有機金属の知見を基にHoveyda が不斉合成をはじめとする種々の有機合成を手がけており、両人の連係プレーの良さが伺えた。ボストンはアメリカの観光名所であり非常に沢山の人が訪れるが、それだけにホテル代をはじめ物価の高いのが難点であった。次回の会議をどこで開催するかがISOMの各回の会議期間中に十数名からなるAdvisoryCommittee で議論される。それまで欧米でのみISOM は開かれてきたためAdvisory Committee ではアジアでの開催を目論んでいた。筆者(増田)はその会合の席で、日本は景気が芳しくないため日本で行うのは困難との意見を表明したが、アジアで一度開くべきだとの考えが強く京都での開催が投票で決定された。Grubbs 教授に、主催者の主要任務は募金であると言って励まされたことを記憶している。

このようなわけで第15回(2003)は京都のロイヤルホテルで開催した。組織委員として光藤、大嶌、中條、小澤、真島、岩澤、寺野教授らのご協力を頂いた。ISOM の二人の重鎮であるGrubbs が最初の講演そしてSchrock が最後の講演を行うようプログラムを作成した。外国から53名、国内より125名、合計178名の参加があり、外国からの参加者数がかなり多いことが注目される。日本の有機金属化学および有機合成化学を海外に宣伝する良い機会になったのではないかと自負している。開催した8月初旬は欧米に比べて日本特に京都は暑いことを心配したが、その年の夏は意外と涼しかった。また、京都大学工学研究科化学系が桂キャンパスへ移転した時期と重なり多忙を極めたことが印象に残っている。日本人はシンポジウムを懇切丁寧に準備するので、このISOM もご多分に漏れず好評であった。

第16回(2005)はポーランドのPoznan というワルシャワとベルリンの中間ぐらいのところに位置する中規模の町で開かれた。Grubbs の開発したルテニウムカルベン触媒の種類が増え、多くの研究者がGrubbs 触媒を用いた研究を発表した。ヨーロッパでのバンケットは色々自由な形が取られるが、この会では参加者の多くがダンスを楽しんだ。この年の10月にChauvin, Grubbs, Schrock の3人のノーベル賞受賞というISOM 仲間にとって最高の朗報が流れた。彼らのノーベル賞受賞を時間の問題とは思っていたが、予想より早かったのはうれしい誤算であった。第17回(2007)はたまたまGrubbs 教授が世話をし、米国Pasadena で開催されることになっていた。第17回は予想通り多くの参加者があり、従来より1 日長い5日半会議が続いた。また彼が重要職を務めるMateria(ルテニウムカルベン触媒を製造する企業)への見学やMateria からの3人の講演などGrubbs カラーがかなり強く出ていた。

オレフィンメタセシスという反応は1950年代末頃見つかり、1966年頃までは反応機構の全く分からない1日で例えれば夜明け前の第1ステージと言える。1967~1975年は反応機構について研究競争が展開された第2ステージであり、主役はCalderon とChauvin であろう。1980~2000年はSchrock とGrubbs がwell-defined 触媒の開発で熾烈な競争を展開した第3ステージと呼ぶことができる。1986年にGrubbs がチタナシクロブタンを用いて見事なリビング重合を達成したが、この触媒は活性が低かった。その後1989~1994年にはSchrockが活性の高いモリブデンカルベンを開発し一世を風靡した。この時期Grubbs はSchrock カルベンを用いた論文を発表するなど臥薪嘗胆のときであった。その後(1995~)Grubbs がルテニウムカルベンの研究を急展開させ、この分野の第1人者という頂点へ登りつめた。彼ら二人は仲が悪いと揶揄する人もいるが、ライバルとして競争しながら目を見張るような多数のwell-defined 触媒をともに開発しこの分野のカリスマ的存在であり続けた。二人の開発した種々の触媒が市販品となっている。第4ステージと呼べる21 世紀のこの約10年は、世界経済で資本主義が一人勝ちになったように、ルテニウムカルベンがメタセシス触媒の大半を占める世の中になってきた。今後、ルテニウムカルベンを中心とするメタセシス触媒が生理活性物質や生体関連物質など様々な化合物の合成へと応用・展開されて行くであろう。

以上述べてきた「オレフィンメタセシス国際会議」を一例として振り返ると、20世紀の科学の先端はまさに欧米を中心として発展してきた。これは、最新情報が欧米に偏っていて拡散に時間がかかったことが大きな理由となっていよう。欧米から遠く離れた島国である日本では、これまで半年~1年程度の情報の遅れが通常であったが、今後は科学に関する最新情報に常に接触できる種々の環境を構築する必要がある。上述のようなオレフィンメタセシス化学の発展のプロセスは多くの分野で見られるプロセスと似ていると思われる。そうすると、優れた研究をするためには常に最新の情報に晒されつつ、人真似ではない真に独自の考えに基づく研究をすることが肝要であろう。21世紀の現在、情報の拡散速度は以前よりはるかに速くなっている。何が重要な問題で自分がどのように取り組めるかが問われよう。若い研究者たちの活躍に期待したい。

(名誉教授元高分子化学専攻)
※(Professor University of Veszprem)
※ University of Veszprem, Veszprem, Hungary

ISOM の開催地
第 1回 1976 年 ドイツ
第 2回 1977 年 オランダ
第 3回 1979 年 フランス
第 4回 1981 年 アイルランド
第 5回 1983 年 オーストリア
第 6回 1985 年 ドイツ
第 7回 1987 年 イギリス
第 8回 1989 年 ドイツ
第 9回 1991 年 アメリカ
第10回 1993 年 ハンガリー
第11回 1995 年 イギリス
第12回 1997 年 アメリカ
第13回 1999 年 オランダ
第14回 2001 年 アメリカ
第15回 2003 年 日本
第16回 2005 年 ポーランド
第17回 2007 年 アメリカ
第18回 2009 年 ドイツ(予定)