「あり得ないような状況を想定する」ことの効用―演習問題の物理と現実の物理

谷村 省吾

谷村 省吾私は量子論と幾何学、とくに近年は量子コンピュータの基礎となる量子系の状態観測や制御の研究をしています。紙数の都合もありますので、ここでは、研究を通して思うこと、とくに「あり得ないと思えるような仮定」の使い道について思うところを述べさせていただきます。

物理学者は、しばしば現実離れした極端な状況を想定します。「孤立系」や「質点」といった概念は、ある意味では机上の空論であり、話を簡単にするための仮定です。「理想的な、大きさを持たない点光源があったとしたら、どんな干渉縞が観測されるだろうか」といった問題は、演習としては意味がありますが、現実的ではありません。現実の光源はどんなに小さなものでも、「大きさを持たない、数学的な点」ではないので、現実の光源から得られる干渉縞は、理想的な演習問題の答えの干渉縞からずれたもの、ぼやけたものになります。「点光源」という条件は、実際には満たされることのない条件なので、こんな仮定に基づいた計算は役に立たないと思われそうですが、逆手にとれば、「干渉縞のぼやけ」は極度に小さな光源の大きさを測る手段になります。理論的に分析してみると、光源の大きさや形に依存して干渉縞のぼやけ方に規則性があることが分かります。「小さな光源」の典型的な例は星でしょう。太陽を10 光年離れた所から見れば、視直径は0.003秒角になります。これは直径26.5mm の500 円玉を1800 km 離れて見た場合に相当します。望遠鏡の分解能が現在最良のものでも0.6 から0.06 秒角であり、ほとんどの恒星は10 光年よりもはるか遠方にありますから、望遠鏡の像で星の大きさを測ることはできません。ところが、恒星といえども「真の点光源」ではありませんから「干渉縞のぼやけ」を生じます。マイケルソンはこのぼやけ方を測ることによって、1891 年に木星や土星の衛星の視直径を測ることに成功しました。最初にアイディアを唱えたのはフィゾーでしたが、実行したのはマイケルソンでした。彼はさらに観測装置を工夫して、1921 年にはオリオン座のベテルギウスの視直径を測ることに成功しました。その値は0.047 秒角で、ベテルギウスまでの距離は約190 光年であることが別の観測から知られていましたので、ベテルギウスの実直径は4.1億km、太陽直径の300 倍もあることが判明しました(その後、距離の観測値が改められ、実直径は太陽の600 ~ 900 倍という値が得られています。この星は明るさや直径が周期的に変動する脈動変光星です)。これが赤色巨星の発見です。マイケルソンの方法はその後も改良を加えられ、現在でも星の視直径を測る手段として利用されていますし、これに量子論の効果を加味した方法は原子核の大きさを測る手段になっています。

「あり得ないような状況を想定する」ことの効用理想的状況からずれると、ただちに答えが変わってしまうような問題を、物理の演習では解かせるわけですが、それは試験を通るためだけに役立つことではなく、まさに「その設定からずれたらその答えにはならない」という敏感さのおかげで「ずれ」を検知する手段になるのです。理想化・純化された概念や設定は、多様な現象を捉えるための普遍な基準や分析手段になるという意義があります。似たようなことが、量子論と現実との関わりについても言える場合があり、着眼点と工夫次第で思わぬ効用を生み出す可能性があると思って研究をしております。

(准教授・情報学研究科 数理工学専攻)

(参考文献:Max Born and Emil Wolf,“ Principles of optics: electromagnetic theory of propagation, interference and diffraction of light”, 7th edition(Cambridge University Press, 1999).