「測・造・繕」を42年、思い出は六号館とともに

工学研究科技術部 林 豊秀

林 豊秀本部構内の南東近くに建つ工学部六号館は、そこここに赤レンガの古い建物が残る当時の工学部にあっては、比較的新しい校舎でした。

42年前の7月、初夏の暑い日に冶金学教室が入るこの六号館の3階、南側に位置する「冶金反応および操作研究室」に配属され京都大学職員としての生活が始まりました。

配属当初は「冶金」と云う言葉の意味すらよくわからないままに最初に任された仕事は、金属粉末を固型化し高温真空下において脱炭を行い低炭素合金とする「超低炭素Fe-Cr の製造」と云う研究テーマだったように思いますが、それの実験担当でした。

それは、1スパンの狭い実験室に据えられた炉内温度が1400℃に達する2基の電気炉に試料を装填し昇温速度に気を配りながら所定の温度に達した後、スライダックを手動で操りその温度を数時間にわたり保持して低炭素Fe-Crを作り、それをガス容量法?により炭素分析を行うと云うもので、このような実験を毎日、繰り返し行っておりました。実験室の窓は風が炉の温度に影響をおよぼすとかで閉じられ、手製の電気炉は盛大に熱を放散し、さらに南向き、日当たり良好といったこともあり室温はたちまち40℃超となるかなり劣悪な作業環境であったはずですが、周囲にエアコンなど一台も見当たらない時代のこと、暑かった!と云うような思いは不思議と残っておらず、その環境適応能力の高さは42年を後にした現在とではずいぶん違うようです。

ちなみに現在の研究室においても並列につながれた10台のパソコンが終日稼動しており、室温は真冬にもかかわらず、25℃に達することがあります。

やがて、研究室になじむにつれ、日々の実験の他に装置の製作や保守・管理なども手がけるようになり、工作室の技術職員、Mさんと知り合いました。六号館の中庭では昼休みに本格的にバレーボールの練習を行うクラブがありMさんは敏腕マネジャーとしてクラブの中心的存在で私も誘われるままに加わることになりました。

当時、行われていた総長杯バレーボール大会において監督を務められる機械工学教授M先生、キャプテンの電子工学M 先生、マネジャーのMさん、この三人のMさんが率いる我が工学部チームは大変に強く、12連勝の後、一度敗れてその後に大会が廃止されるまで6連勝と未曾有の強さを誇りました。

やがて、このクラブを中心に輪が広がり、京大職員バレークラブとして北は農学部から南は防災研、そして事務官から教養部長にいたる広範な地域、職種のメンバーが集い学外へも活動の場を広げていきました。

このクラブでは練習・試合はもとより随時開かれるコンパなど、大いに楽しませていただきましたが、その和やかな雰囲気を反映するかのようにこの場で出会い、そして家庭を築くに至った者が4組もおりますことからそのチームカラーをうかがい知ることが出来ます。

このように研究室から中庭にいたるまで30数年にわたる数々の思い出を残した六号館も南側が取り壊され、工学部総合校舎として生まれ変わりました。

「測・造・繕」を42年、思い出は六号館とともにこの間、一貫して研究室で、あるいは材料科学実験の場で技術職員としての、また、それらに加えて経費の出納管理、総務関連の文書作成などなど、研究室で発生する多種多様な研究・教育支援業務に携わってきましたが、そんな中で2004年に日本分析化学会有功賞を受賞したことはとても嬉しい出来事でした。

かくして「はかれて・つくれて・なおせる秘書」を42年、私は、材料工学専攻「プロセス設計学研究室」で定年となりますが、河合潤教授、そして先に退官された田邊晃生准教授のもとで様々な職務に励んだこの工学部総合校舎はどのような思い出を残してくれるでしょうか。

(技術専門職員・材料工学専攻)