リスクと共に生きる

内山 巌雄

内山 巌雄私は、都市環境工学専攻に8年間お世話になり、本年3月に退職した。都市環境工学専攻の前身は、衛生工学科であるが、設立当初から環境衛生学講座の教授は医学部出身者というポリシーがあり、私はその伝統を引き継いで第4代目ということになる。工学部の中の学科としてこのような公衆衛生学的な観点をもった医学部出身者を必ず入れるという考えで作られた学科や専攻は、他には北海道大学しかなく、以前からその先駆的な考え方には敬意を表していたので、私の研究生活の最後を京大で過ごすことができたのは大きな喜びであった。私自身は本学の出身ではなく、東京生まれの東京育ちであり、赴任して初めて京都に居をかまえたのであるが、本籍地の住所は京都市左京区吉田上大路町12番地で、まさに京大の正門近くの吉田神社の鳥居の側であったので、何か懐かしさと親しみを感じ、帰るところに帰ってきたという感がしてならなかった。そのせいか、退職した今も、東京に帰る気にはならず、妻とともに京都生活を楽しんでいる。余談であるが、本籍地は私の父が青年時代に国(山口県萩市)から出てきた時にこの地が気にいって定めたもので、実際に住んでいたわけではない。

京大での教育、研究は、学生諸君との議論の中で大いに進展し、これまで私が行ってきた大気汚染や有害化学物質の生体影響、有害化学物質のリスク評価に関する研究のみでなく、ナノ粒子の生体内挙動に関する研究、微量化学物質のバイオマーカーの開発等に幅を広げることができた。しかし、ばく露実験を行うチャンバー等の設備を短期間に整備することは困難であったので、この面では学内、学外の多くの先生方のご助力をいただいたことに改めて感謝したい。

私が環境問題に取り組み始めたのは、大気汚染、特に光化学オキシダントの主成分であるオゾンの生体影響に関する実験的研究であった。オゾンの影響が呼吸器系にとどまらず、循環系にも影響し、心拍数、血圧の低下をきたすこと、睡眠時のレム睡眠を減少させることなどを動物実験で見出し、米国環境保護庁から研究費をいただいて、1987年から1年間ハーバード大学に客員研究員として留学することができた。そしてこの留学が、私の「リスク」に関する目を開かせてくれる大きな機会ともなった。当時の上司であった横山栄二先生(元国立公衆衛生院院長)から、「これからリスクのことに取り組む気があるなら、米国で少しリスクの方も勉強してきたらどうか」と勧められた。丁度その前年に米国NRC(National Research Council)が、これからの環境問題に関してリスクアセスメントを導入すべきという方針を示した時期であった。留学期間中の後半は、少し時間的、精神的にも余裕ができて、当時ハーバード大学に設立されたリスク分析研究センターでの講演会に出席したり、資料を集め、大いにその熱気にふれることができた。そして帰国後もMITで開催された「Cost-benefit Analysis」に関するSummer seminar にも出かけていった。このセミナーの参加者は、米国、カナダからの7、8名だったと記憶しているが、全員経済学を専攻した者であり、自分は医学系であり、大気汚染物質規制における費用―便益の勉強をしているのだと自己紹介をすると、日本にはこの方面の経済学者はいないのかと同情の目で見られた。確かに専門外の私には、前提となる経済学の知識が不足しており、難しくてあまり理解できず苦労した。その後厚生科学研究で、環境中のベンゼンばく露による急性骨髄性白血病発症のリスク評価予測とその直接、間接の費用と便益を試算して発表した。今からみれば数少ない我が国の環境中ベンゼンのモニタリングデータを使用した稚拙な試算であったが、白血病発症予測人数は、我が国で年間数十人のオーダーと推計された。当時は、リスク評価は不確実性が多くてまだ実際には使えないと思われていたが、動物実験ではなく、しっかりした疫学調査のデータをもとにすれば、比較的現実的な値が出ることがわかったことは大きな収穫であったと思っている。

その後、我が国の行政の公の文書で本格的にリスクの概念が扱われたのは1993年に成立した「環境基本法」を受けた翌年の「環境基本計画」に「環境リスク」として記載されたのが最初である。ここでは定量的なリスク評価(リスクアセスメント)には触れていないものの、初めて化学物質のリスクの削減の必要性が議論された点で評価される。

本格的なリスクアセスメントについての道筋と環境基準値のリスクレベルについて議論されたのは、1994年12月に開催された「有害大気汚染物質対策に関する国際シンポジウム」の場であった。その年の初めのOECD の会議で、今後発がん物質としての有害大気汚染物質の管理を行っていない国には非関税障壁を設けるということが議論されたのを受けた形であり、いわば外圧によって動きが加速したのは残念であるが、ともかくOECD、米国EPA、ドイツ、オランダからエキスパートを招聘して講演と討論を行い、国及び地方自治体の担当者への「有害化学物質のリスク評価」の概念とその必要性の啓発を行った。環境省からの依頼で大気汚染学会(現大気環境学会)が中心となって開催にこぎつけたが、資金集めから招聘者の交渉、決定等、事務局長として約半年間は大忙しであった。これを契機として発がん性化学物質の環境基準の設定への機運が高まり、1996年にリスクアセスメントを用いて初めてベンゼンの大気環境基準が設定された。環境目標値の生涯リスクレベルをどのようにするかは、公聴会が何回か開かれ、わが国の環境基準の精神から言っても10-6(一般的に無視しうるリスクレベルといわれる)以下が適当という主張もあったが、当時のベンゼンの環境中濃度、ガソリン中ベンゼンの含有量削減の技術的問題等が議論され、リスクマネジメントの観点から当面生涯リスクレベルを10-5以下とすると決定され、それが今日まで続いている。

その後の環境問題に関してリスクの概念を用いて評価することが急速に広まってきていることは、皆さんもご存知のことと思うが、この間、私も多くの環境基準値や指針値の設定、法律の改正等に関与できたのはリスクを研究する者にとって幸運であった。

京大にきてからは、化学物質のリスクコミュニケーションの実践にも力を注いだ。この間の大きな出来事がいくつかあるが、その一つは、三宅島の噴火のあと、二酸化硫黄ガスの噴出が続き島民の避難が長引いたが、二酸化硫黄濃度が少し下がってきた時点で、避難措置の解除の条件を決定する検討会を任されたことである。その結論として二酸化硫黄濃度の環境基準よりはやや高い値を設定し、十分なリスクコミュニケーションを行って、健康リスクがあることを理解した上で、帰島するか否かは各個人の判断に委ねるという我が国で初めての方式を打ち出し、実行したことである。当初は海路も空路も定期便は欠航しており、三宅島へは警視庁や消防庁のヘリコプターで数回視察に行ったが、幸運なことに天候に恵まれ全て予定した日に飛ぶことができた。同行した都の職員からは「先生が来る日は何でいつも天気がいいのだろう、奇跡だ。都知事も、陛下も何度も飛べなくて待たされたのに。」と言われた。噴火後初めて降り立った時には、空港には二酸化硫黄の臭いと刺激が強く、雄山山頂の牧場であった場所に行く道の木々は二酸化硫黄ガスで全て枯れ果てた荒涼とした風景が続いており(写真)、いつ帰島ができる程度にガス濃度が低下するか暗澹たる思いがしたが、年を経て行くたびに島の緑は少しずつ回復している。現在は島民も噴火前の70%近くが帰島されたが、まだ居住が禁止されている地区も残っており、毎年の健康診断では呼吸器症状の有症率が多少高くなるなど、まだまだ安心できない。

リスクと共に生きる

雄山の山頂付近の荒涼とした牧場跡(第2回三宅島視察、2004.5)

さらに、2005年に尼崎の工場周辺の一般住民にアスベストばく露による中皮腫の発生が確認され、我々がその5年前に東京の文京区の保育園の改修工事で起こった園児のアスベストばく露に関するリスク評価の方法が改めて見直されたという事も印象に残っている。また、それを契機に公共の建物のアスベスト使用の有無が改めて見直され、京大の体育館を閉鎖しての除去工事の決定にも携わった。

現在は多くの分野で「リスク管理」の重要性が指摘されているが、それを担うリスクマインドを持った人材はまだまだ少ない。リスク評価やリスク管理の不確実性やその手法は現在も研究・発展途上にあり、その研究者の育成にも力を注いだつもりであるが、同時にその研究を支え、社会に還元するリスクマインドを、私の在任期間の学生が少しでも理解していてくれれば望外の幸せである。

(名誉教授 元都市環境工学専攻)