雑感:六十余年を振り返って

檜山 爲次郎

檜山 爲次郎私は、わが国が第二次世界大戦に敗戦した翌年の暑夏に生まれ、食糧が充分でない時代に育った。イナゴの佃煮も口にしたし、庭にサツマイモを植えて飢えを凌いだこともある。防空壕の跡地で近所の友達とかくれんぼなどして暗くなるまでよく遊んだ。日本が戦争に負けたのは、日本文化が劣っているからだとか、日本語が論理的でなからだとかの論調が雑誌、新聞では主流であった。漢字をやめてすべてローマ字にしたらよいと堂々と論する国語学者もいた。日本史を習っても、西洋と比べて劣った民族の歴史を学んでいる気持ちが強く、長らく劣等感に苛まれていた。

小、中、高校と成長するにしたがって次第にわが国の経済力が向上し、西欧諸国と肩を並べるようになると、わが国の文化的劣性はあまり語られなくなった。むしろ日本文化のユニークさを強調する論調が強くなってきた。国民が自信をもち始めたことによる。奈良時代に大仏を鋳造する技術は世界中に比類ない。江戸時代の上水道の普及は当時ロンドン、パリ以上だった。幕末の識字率はイギリス、フランスを凌駕していた。これらの事実があったればこそ、明治以降の富国強兵、殖産興業政策によって、西洋の科学・技術にいち早く追いつき、いまでは先導すべき立場になってきていると理解できる。

さて、いまや欧米に比肩する科学・技術の水準に達したといえるが、これからはどうしたらよいか?独自の思考回路をもち、論理をしっかりさせて先導的立場を確立・堅持してゆくことが望まれている。その意味で、京都大学こそわが国いや世界の学術を先導すべき立場にあることを深く認識して独自の展開をしてゆくことが求められている。

なぜ京大に来たのか?入学したばかりの新入生に訊ねたことがある。答えは、よい教育環境だから、よい先生がいるから、よい機器がそろっているから、学問の自由があるから、など様々だったが、いずれも受験参考書にありそうな優等生の答えで面白くなかった。今の学生にはもっとユニークな視点を持ってほしいと思った。私が新入生に提案したのは、京都の町には千年以上わが国の首都として君臨してきた歴史がある。その間、歴代天皇や公家を中心としてわが国の芸術文化の中心であった。文化・芸術・技術・工芸の各分野において常に先導的水準を維持し発展させてきた。日本文化の真髄が町の各所にあるといっても過言でない。花、書、茶のように日常生活と深い関わりのある活きたソフトも充分にある。学部学生時代すなわち、10代後半から20代前半の若い時に、日本文化の美の真髄に触れる経験が学生たちの将来に大きな糧になると信じている。

京都大学の学問も、この京都の文化と切り離せない。国文学、哲学、社会科学、歴史学など、わが国独自の文化的背景をもつものは当然ながら、自然科学のような世界基準で論じなければならない分野の学問も京都独特の風土で育まれたものもある。そこには、発想の原点、展開の仕方など、オリジナルで新規なものに挑戦する京都独特の文化が大きく影響し、京都から発信した知が普遍性を得て世界基準になっている。「面白い!」から発する真にオリジナルの発想を高く評価する土壌である。

京都大学が創設されて百年が過ぎた。今あるのは、先達の血のにじむような努力の礎があることを忘れてはならない。したがって、京大に奉職するものは次の百年にも責任を感じるべきである。はたして現状でよいか?数百年先の展望が描けるか?桂キャンパスへの移転を決心し、多くの人の賛同を得たのは、この視点が鍵であった。自分たちの世代の不便さを嘆くより、次世代のための大きな決断であった。

私は昭和40年、東京オリンピックの翌年入学し、4年生から大学院にかけて学園紛争を経験した。私自身ノンポリであったが、否応なしに紛争に巻き込まれ、日本の社会の閉塞感を同世代の若者と共有した。占拠から解放された時計塔の登頂を果たしたこともあるし、工業化学科の最初で最後の団体交渉の議長をさせられたこともある。しかし、昭和47年博士課程途中で助手にしてもらい、プロとして研究を始めることになって、他の可能性はスッパリと諦めた。昭和56年財団法人相模中央化学研究所から再三熱心に口説かれ、断れず転出した。そこでは30代前半で小さいながらも独立の研究グループを持たせてもらった。研究所の企画・運営にも関わり、活力ある民間研究所の在り方など何度も展望を議論し具申した。支持会社や興業銀行のトップとの交流を経験し、リーダーとしての視野と考え方を学んだ。縁あって平成4年に東京工業大学資源化学研究所に招かれ、これを終の住処と定めたが、5年後の平成9年に京大に戻れと声がかかり、やむを得ず単身戻った。爾来13年経ち、ようやく定年を迎え家族のもとに帰れると安堵している。

京大に戻っても、建物(内外部とも)、学内組織は16年前と同じながら、人はすっかり入れ替わって、ほとんど浦島太郎の気分だった。しかも、大学運営は世間の動きに疎くて何事にも対応が鈍く、「遅れてルー」というのが第一印象であった。これは京大の大きなデメリットだが、他方、世間の流行に左右されない独自の研究をじっくりできる意味においては皮肉にもメリットになると思った。

京大教員のうち8割以上を京大出身者が占めると言われている。これは異常だ。入学以来一度も学外で過ごしたことのない人も多いことと思う。これは今の時代において問題である。学外出身者や学外経験者を役員・教員・事務スタッフにもっと加えて、新風を入れる必要があると思う。とくに先導的な国際スタンダードを導入することを真剣に考えるべきである。外国人の採用など、異なる経験と価値観をもつ人との交流が創造のためによい刺激を産むからである。

日本学術会議においても、学部から大学院に進学する際に大学を変わることが推奨されている。これも、異なる環境、異なる人脈のもとで幅広い視野を養成する視点から望ましいことである。アメリカでは、学部から大学院に進学する際や大学に就職する際に、場所を変えることは当然のように考えられている。異なる経験をすることが有益であると考えられていて、これがアメリカの学術の活性化に大きく貢献しているとする意見は多い。日本学術会議化学委員会高度人材育成分科会でもこの問題をとりあげて、アンケート調査をした。その結果、大学を変わらない大きな理由の一つは、経済的問題である。大都市で下宿をするとなれば、大変な出費が嵩む。これの問題を含め、人的交流を推進するための対策として、高等教育の無料化、寮の整備が提案されている。現実的対策として、大学を変わると有利な奨学金をもらいやすい制度を確立することは容易である。

わが国では、「優秀な人ほど一カ所で長く働く」のが常識であったようで、現在の退職金制度はこの思想に基づいている。むしろ発想を逆転させて、アメリカのように、優秀だからこそ請われて転職して厚遇に恵まれるよいスパイラルをつくるべきである。さて、私は民間を含めて職場を転々と変えた。本年4月に中央大学に拾ってもらったことを含め、計4回。私の場合は、残念ながら、様々な理由によって、転職のたびに給料は下がった。これでは誰も続こうとは思わないだろう。たまたま事情を理解してもらい、働きを評価してもらって復給・昇給してもらったことが度々であったが、これでは不完全な制度である。当然退職金は期待できない。しかし、これらのデメリット以上に得たものは、幅広い知己である。財団の研究所にいたおかげで、化学企業の研究開発や経営トップと交流できたし、国内外の企業との共同研究を通じて貴重な経験をした。いわば国際的横断的視野を養うことができた。企業研究者との交流によって重要な研究の種がたくさん見つかった。これらは貴重な経験だった。独法化によって民間経営のノウハウや発想を活かせるかと思ったが、京都大学では全く機会がなかった。私にとって雑用が増えなかったので幸いであったが、大学にとっては惜しいことだと思う。

いよいよ退職にあたり、後輩諸氏に期待するところを述べたい。はたして京都大学はわが国ナンバー2で満足か?答えは即座にノーだと信じる。ぜひとも前向きの姿勢を堅持して、世界ナンバー1を目指してほしいと思う。これは単なる量的意味ではなく、ステータスを意味する。すなわち、教育研究のために先進各国からも京都大学に人が集まってくるようになってほしい。世界中の人々から尊敬されるよう、指導的立場を高めてゆく努力を重ねてゆけば、学術の世界でリーダーたる地位を確立することは、決して夢ではない。今後の百年に期待したい。

(名誉教授 元材料化学専攻)