定年にあたって

榊 茂好

榊 茂好定年を目前に迎えて、何か書こうとすると、どうしてもこれまでの事を振り返ってしまいます。退屈と思われるでしょうが、想い出に少しばかり、お付き合い頂ければ幸いです。私は京都大学には昭和40年4月に入学しました。工学部燃料化学科でしたが、入学の年に改組があり、石油化学科となって、講座も増加しました。私達は燃料化学科の最後の学生ですが、卒研や修士課程の講座は新しい石油化学科のそれに衣替えされていたので、実質的には石油化学科の最初の学生であったのかも知れません。その後、修士課程、博士課程とお世話になり、さらに1年間、学術振興会奨励研究員として京都大学でお世話になったので、合計10年間、学生として京都大学に所属していたことになります。卒研、修士、博士、いずれも燃料化学科第3講座触媒化学講座で、教授は多羅間公雄先生、助教授は吉田郷弘先生、助手は金井宏叔先生、船引卓三先生という構成でした。昭和40年は東京オリンピックと新幹線開通の翌年で、60年安保闘争の名残も、その後、昭和43年に始まる大学紛争のきざしも全く無く、至極、のんびりとした教養部、学部3回生時代であったように記憶しています。どこかで、政治闘争のようなものがあったのでしょうが、私の周囲は全くそのような気配も無く、いたってのんびりした学部生活を過ごしていました。しかし、昭和43年秋に東大医学部を発端とした東大闘争が始まり、翌年には京大でも紛争が始まりました。それまで考えもしなかった「自己否定」とか「研究者のあり方を考えるべきである」、と言うような問いかけがあり、それは確かにそうだ、と感じるのですが、具体的にどうするか、は難しいもので、とにかく、鬱々とせざるを得ない時期でした。このような考えに従って、人生の方向を真摯に変えていった先輩や後輩もいました。今の豊かな時代では、当時と全く同じである必要は無いのですが、もう少し当時のような問いかけも必要ではないか、と感じる時もあります。

研究は、上で述べましたように4回生で多羅間研に配属され、「NaBH4 存在下Ni(II)錯体による1- ブテンの異性化反応」で、金井先生に手取り足取り、1対1で、実験を教えていただきました。私は結構ガラス細工なども上手だったと自分では思っていまして、真空蒸留用トラップなども自作して使っていたりしました。4回生の秋、大学紛争の始まる前ののんびりしたある日、多羅間先生の部屋に本を借りに伺ったところ、机で文献を読んでいた多羅間先生が「榊君は大学院に進んだら、理論計算で触媒化学を研究しなさい」と言うようなことをおっしゃった。その時は何も言わず「はあ」と答えただけで「失礼します」と教授室を後にしてしまいました。せっかく先生が将来の研究に示唆してくれたのに、「はあ」と言うだけでさっさと帰ってしまったのは、ずいぶん、好い加減な学生だったと、今は思います。多羅間先生も拍子抜けしたことでしょうが、温厚な先生は特に、それ以上何もおっしゃらなかった。今考えると、雑誌会で1965年に出たWoodward-Hoffmann 則の論文を渡されたことなどから、研究室に配属された頃から、理論化学をやるように仕向けられていたのかもしれないと感じています。

そうは言っても、修士課程に入ってすぐに触媒反応の理論研究を出来るわけではなく、錯体触媒の実験研究をやったりしていた。しかし、何時までもこれではいけないと思い、博士課程に入ってからは、電子状態理論を錯体触媒の研究に生かそうと研究方針を変えました。当時、米沢研にいらっしゃった博士課程の小西英之さんから遷移金属錯体の計算が出来る拡張ヒュッケル法のプログラムをもらい、それを半経験的分子軌道法のプログラムに作り直して、研究を始めました。米沢研から名古屋大学教養部に移動された加藤博史先生にご指導も頂きました。当時は、計算センターに朝、プログラムをコンパイルに出し、夕方か翌日に受け取り、デバックをして、また、出す、と言うような生活の繰り返しでした。さすがにその頃は紙テープでなく、カードになっていたので、研究室からカードの入った箱を2つほど手で運んで行き来したものです。それ以来、遷移金属錯体の電子状態理論研究をずっと今までやってきたことになります。自分の経過を考えると、自分も教授になったのですが、大学の教員の言葉というのは責任が重いとしみじみ感じます。

昭和50年から熊本大学工学部工業化学科の助手に採用、その後、助教授、教授と昇進させて頂きました。1970、80年代はネットワークなどは全く無く、熊本大学では理論・計算化学研究が非常に困難で、学生さんに理論・計算化学研究を卒論のテーマに出すのがためらわれました。また、実験研究を希望する学生さんも多く、これらの状況を考え、実験化学研究も始めました。多少、電子の動きや軌道の概念が直接反応に結びつくようなことをしたいと思い、銅(I)錯体の光誘起電子移動反応と光触媒反応の研究を始めました。遷移金属錯体で優秀な光増感剤というと、ルテニウム(II)トリスビピリジン錯体系ですが、この励起電子状態と銅(I)フェナントロリン錯体のそれは良く似ていて、光触媒作用が期待されると考えて、この系を選びました。当初は中々成功せず、どうしてだろうと悩みましたが、学生さんががんばって、成功させてくれました。この研究は太陽電池の試作にも結びつきました。立体選択的光誘起電子移動反応というような、余り役には立たないけど、新種の反応もやり、ラセミ体から光学異性体の純度を上げるような逆ラセミ化反応などを見つけたりしました。学生さんの努力の賜物です。そのかたわら、遷移金属錯体の理論・計算化学研究も自分自身と数名の学生さんの協力で続けていました。平成14年から京都大学工学研究科分子工学専攻に呼んでいただき、以来8年間、再び、京都大学でお世話になった訳です。理論化学・計算化学研究は主に、遷移金属錯体と電子状態や反応性、触媒作用に注目して、行ってきました。私が研究を始めた頃は遷移金属錯体の反応過程に関する電子状態研究はほとんど無かったのですが、1990年代から次第に増加し、2000年に入ってから、あるいは、密度汎関数理論が登場してから、と言うほうが正確かもしれませんが、最近は非常に多くなってきました。遷移金属錯体の構造や反応過程も、それほど苦労せずに理論計算から求めることが可能になっています。しかし、そのため、安易に結果のみを羅列した論文が増えていて、本質が何か、を求めようとする論文は少なくなっているような気もしています。数年前には63歳で定年になるのは丁度良い、と思っていましたが、その定年を間近に迎えると、「あと5年あったら、こんなこともやりたい」と思うようになりますので、不思議なものです。しかし、多くは優秀な学生さんが居て出来ることであり、自分の力で可能なことは限られていることも判っており、この辺が良い潮時だろうと、一面では感じます。

2つの大学で多くの学生さんや教職員の皆さんと楽しく研究、教育が出来たことは大変ありがたく思っています。熊本大学に赴任した当初は、学生さんが何と素直で純真だろうと感じましたが、京都大学に戻った時も同じような印象を持ちました。と言うことは、私達の年代、あるいは私達よりも少し上の年代の京大生は、何となく「とにかく、自分で考えろ、自分で決めろ、先生のご意見はたしかにお聞きしましたが、私はこうします」と言うような行動をとるような傾向があったのではないかと、今は感じています。よく、京都大学を表現する言葉は、自由、独自性、独創性と言われるようです。先輩の教授の先生が「低い柵のなかの牧場で自由に研究をさせてくれた」と、研究室の雰囲気を表現していました。ある意味、理想的な環境だろうと思います。研究では「壁を自分で登りきる」ことで成長していける、とすれば、教授は、何をすればよいのか、と自問自答しました。博士課程に進む学生さんや進みそうな学生さんには最初の出だしのテーマは、本人と相談して私が出しましたが、その次は、相談しながら、ある程度自由にテーマ選択をしてもらうようにしていました。そのやり方が良かったか、分かりません。京都大学ではトップから10%程度の学生さんは大切に育て、将来を託す存在に成長させないといけない。トップというのは、別に成績という意味ではなく、基本的な能力という様な意味です。どの学生さんもトップ10%になりそうな力を持っていると感じます。「教育と研究は不可分」と言う点は大学の非常に良い一面と考えています。4回生を研究室に受け入れ、一緒に研究をしながら、彼らの成長と共に、良い研究をすることが出来るのは、京都大学の教員の幸せと考えます。京都大学の一層の発展を確信しています。

(名誉教授 元分子工学専攻)