京都大学の自由を考える

垣内 隆

垣内名誉教授京都大学農学部に入学し たのは1966年である。そのころは、大学の自治に関する学生の意識は高かっ た。なんとなしに入った ユースホステルクラブは教養部グランドの西にあるハモニカボックスにあった。そこで話をしていると、西部構内に警官が立ち入ったので川端署に抗議に行こうと誘われた。同じクラブの法学部の友人曰く、「デモは、一度は経験しておかないといかんぞ」と。 そういう雰囲気であった。1960年代末の京都大学というと、1969年の学生部封鎖やその後の時計台占拠が耳目を集めた事件として語られることが多いと思うが、それ以前から、大学の自治すなわち国家権力からの独立を脅かす事件には、たとえば自衛官の工学研究科への入学問題などに見られたように、敏感に反応する「風土」があった[1]。

それから40年を経た現在、それはどうであろうか。2004年4月に国立大学法人となった京都大学 はその基本理念の冒頭に
「京都大学は、創立以来築いてきた自由の学風を継承し、発展させつつ、多元的な課題の解決に挑戦し、 地球社会の調和ある共存に貢献するため、自由と調和を基礎に、ここに基本理念を定める。」
とあるように、自由を重んじる学風であると言われている。530字ほどの基本理念の中に「自由」が5回登場することからもそれが重視されていることが わかる。しかし、自由、自由と言うのはなにか違和感がある。どうも落ち着かないというか、気持ちが悪い。その理由は、自由は強調されるものの、権力からの独立がこれと併せて語られることがないからである。大学の自治の主張は次のような歴史的教訓 を背景とする。歴史的に見て、学問的真実を尊重せず、あるいはそれを歪曲するのは常に権力者の側にあった。しかし、そうした権力が存在する社会システムのなかで、組織的に学問的真理を追求することが可能な唯一の場は大学であり、またそうあらねばならないという教訓である。基本理念冒頭の「創立 以来築いてきた自由の学風」という表現には、自由は長年にわたって築き上げられたものである、とい う歴史的教訓の認識が反映されていると読むことが出来る。

その視点を欠いた(あるいは曖昧にした)「自由の学風」は、恣意の自由、学問的真実を隠すあるい は背くことをすら内包してしまう。もちろん、大学における学問・研究は、何をやっても良いという自由では、明らかにない。本学の基本理念の「研究」 の項目でも「研究の自由と自主を基礎に、高い倫理性を備えた研究活動」と謳われており、人倫にもとる事はしない、というのは多くの同意を得るものだろうが、そこには曖昧さが残る。人倫の基準・解釈は人によって異なるからである。

生き馬の目を抜く国際競争に勝ち抜くには、多少の犠牲あるいは危険はやむを得ない、という考え方は、2011 年3月の福島第一原発事故以来、いっそうあらわになってきた。たとえば、かくかくの経済成長率を達成するには、しかじかのエネルギーが必要である、それを満たすには原発の比率はこれこれでなければならない、という主張がその典型である。 しかし、成長したから人々が幸せになるのか、とい う問いかけがとりわけ3.11 以降、現実の説得力を 持ってなされている。成長こそが苦難をもたらしたのではなかったかという問いかけはまさしく倫理を問題にしている。また、錦の御旗のごとくに語られる成長に対する別の選択肢、たとえば工学広報前号で松久寛名誉教授が述べておられた縮小社会[2]という卓見、すばらしい提言も具体的であると同時に倫理的である。かように人倫のスペクトルには幅があり、自由の制約としての述べられる「高い倫理性」は、十分に曖昧でありうる。

そこで、自由の学風の理解のために、基本理念の冒頭の文章にもう一度目を向けると、「自由と調和を基礎に」とあって、ここでは、「自由」は「調和」 によって補足され限定されている。「社会との関係」 の項目にも「自由と調和に基づく知」という表現が出てくる。その意味は何であろうか。それに先立つ一節「地球社会の調和ある共存」にも「調和」が出 てくるが、これとは意味合いが明らかに異なる。こちらの方も曖昧ではあるが地球環境と人間の社会的 活動との調和という意味に取れるのに対し、「自由」 と並置(後置)された「調和」の方はそうではない。 研究を自由勝手にやり放題だと調和を乱すので付加 して限定したと言うことであろうか。しかし、その意味であれば、「研究」の項目にある「高い倫理性」 でそういう研究の自由は制限されるから、それに先立つ冒頭の「自由と調和」は、より一般的な意味で 述べられているはずである。権力からの独立がしば しば、権力との間に「不調和」を生み出すことからすると、その対策として挿入されたのではと思うのは、考えすぎであろうか。「勘ぐり」の余地を残さないためには、少なくとも何との調和であるかは明示されるべきであるし、そもそもこの節にその言葉 を置くことが適切とは思えない。

もう20年以上前のことだが、別の国立大学の教員になった農学部の後輩と飲んで話が農薬汚染やレイチェル・カーソンに及んだとき、彼が、われわれは国家公務員であるから国の政策方針に従わなければならない、などとしたり顔で言うので情けない思いをしたことがあった。どうやらこの頃から、60年代末の問題提起・思考を経験しない若手教員の一角に変容した大学の価値観が定着しだしたようである。もちろん、国立大学も国立大学法人も、財政基盤は税金である。したがって、大学に働くものは、 国民に対して責任を負っている、付託を受けていることはいうまでもない。自らの専門領域において、学術的良心に照らしてそれに答えなければならないのは当然である。あるいは、安易なナショナリズムが跋扈する昨今、より正確には、学問に国境は無いという自明の原則からすると、大学は人類および地球内外の環境に対して、責務を果たさなければならない。また、その責務は税金投入の過多や国立、私立をも問わない。いかなる状況であれ「それでも地球は回っている」と言わなければならない。大学の自由はそういう普遍的な責任を伴ったものだ。

しかし、ここで大事なことは、そうした責務を果たすには、上述のように国家権力からの独立が実質的に保証されていなければならないということであ る。もう少し丁寧に言うと、戦前とは違って、大学の人事に文科省などが直接介入することは、少なく とも本学に限っては、ないのではあるからそれは別 としても、権力におもねることによって、あるいは 空気が読めたり特定の村社会の一員であることを もって、大学における地位が確保されたり、研究費 が左右されることがあってはならない。もしそうしたことがあれば、当該の研究者には実質的な被害と 疎外をもたらすのみならず、大学にとっては自殺行為である。大学は研究だけでなく、それを通じて人を育てていく唯一独特の組織である。変化には時間がかかり、また変化の影響は相当長い間持続する。 これまでの大学や学部の増設などの領域拡大と研究費の獲得が右肩上がりの中では見えにくかった変化が、緩やかに大学という組織の劣化をもたらし、あとになって振り返れば大崩壊であったと認識される地滑りにつながりはしないか、それが小心者の杞憂でないことを祈っている。

ここまで書くと、そういうあなたは、何をして来たのか、と当然問われるであろう。電気分析化学、 電気化学を専門分野として、農学部に20年あまり、 横浜国大工学部に5年足らず、工学研究科に14 年 あまりを過ごし、自由に研究を楽しんだ。農学部の大先輩である池田篤治先生には早い時期から「勝手の垣内」と言われていたことも知らず、また、恩師 の千田貢先生からは「あんたは十分に厚かましい」 と言われながらも、気ままに振る舞ってきた。松久先生と同じく「幸運な時代」[2]を過ごしたと言うこ とであろう。時代環境のみならず、個人的にも多くの幸運と素晴らしい学生、スタッフ、同僚、先輩、 後輩、友人に恵まれて研究することが出来た。専門領域について社会に発言する機会はなく、また研究 に関連して直接に社会的責任を取るように迫られることはなかった。ただ、折に触れては、蛸壺から見 える問題について発言してきたつもりである。上記の基本理念に関する省察あるいは随想は、そういう立場からのものである。

(名誉教授 元物質エネルギー化学専攻)

引用文献
[1]西山 伸「京都大学における大学紛争」京都大 学大学文書館研究紀要第10 号、1-17 頁2012 年
[2]松久 寛「幸運な時代の学生生活」工学広報 N0.57 2012 年