企業と大学での40年

小池 武

小池団塊の世代に生まれて、常に同世代で競争しながら、我が国が高度経済成長するまっただ中を駆け抜けてきましたが、気がつくと、我が国の最高に幸せな時代を生きてきたことを今になってやっと理解できた次第です。

東京オリンピック前後は、日本国内は現在の中国と同様で、大変な建設ラッシュ時代であり、理数系に強い学生は工学部へ集まり、その中で土木工学分野も大いに人気のある学科でした。しかし、我が世代は学園紛争に揉まれて一年間ほとんど講義がない期間を過ごすことになり、嫌が上にも自主的に学生生活を送る機会を得ることにな り、此処彼処で自主ゼミが持たれる時代でした。しかし、それが幸いしてか、勉学における自主性が大 いに涵養されることになり、大学院の研究では当然のことながら自分で新しい研究テーマを見つけることに情熱を燃やす結果となりました。

大学院時代を送った研究室は耐震工学研究室であり、その当時は構造物の地震時動的挙動を数値計算で把握することが可能となったことから、大型汎用コンピュータによる振動解析研究が大変盛んな時代でした。地上構造物、地中構造物あるいは構造物・ 基礎・地盤系の地震時挙動を解析するため、大学院生が総掛かりで取り組んでいたのが印象的でした。

そうした研究室の状況下に遅れて参入した大学院生の自分としては、同じ数値解析を後から追いかけても面白くないと言うことで、どうすれば新しい研究テーマが得られるのか悪戦苦闘していた記憶があります。

いくつかの文献を渉猟している内に、今は構造物の地震時挙動解析結果を集積しようとしているが、いずれ、構造物の耐震安全性をどう把握するかが問題になってくるはずだと思うようになりました。その切り口を得て、暫くして出会ったのが今では信頼性理論の原典と言われる文献でした。まだ大学院生に成り立ての時期でもあり、時間はたっぷりありました。この文献と徹底的に取り組むことができたのが、自分の将来を振り返ったときに、ひとつの転機であったと思います。

信頼性理論は、構造安全性というものを定量的に評価できる合理的手法として当時の最新理論でしたが、地震工学への応用・発展の余地は十分あると直感しました。

研究成果を英文ジャーナルに発表できたのがきっかけで、この分野の世界的権威であったProfessor A.H.-S Ang や当時の若手研究者であったProfessor G.I.Schueller らと知己を得ることができました。当時は、20歳代のため、怖いもの知らずで、アメリカ出張の機会に真冬のイリノイ大学まで、Ang 先生を訪ねていって歓待して戴いたのを覚えています。昨年、急逝したSchueller 先生は、私の論文を読んで、「君はこの分野のパイオニアだ」と言ってくれた人であり、海外に本当の知人を得た思いで大いに興奮すると同時にオリジナルな研究の大切さを痛感した瞬間でもありました。

大学院終了後、企業に入社してから暫くしてコロンビア大学の研究員として研究する機会を得ました。大学に到着して早々の数週間は、招聘してくれたProfessor M.Shinozukaとの徹底集中した議論の機会となりましたが、その中から今に至るまで 係ることになる多くのアイデアが生まれました。当時は、ライフライン地震工学研究の黎明期であり、Shinozuka先生はライフライン研究が担える実務経験を持つ研究員を探しておられた時であり、それにうまく適合した事情を後で知ることになりました。研究分野が黎明期にあるとき、そこで見つかる研究課題はいずれも基本的課題であることから、その後の研究の方向性を決めることになります。この出会いが、正にその時期であり、今に至るもこの面の研究が連綿として続けられているのも事実です。研究成果の一つとして、「地盤震動が大きくなると埋設管周辺の地盤と管表面の間ですべりが発生して、管のひずみは一定以上増加せず、かわりに管路異型部に相対変位が集積するというメカニズム」を定式することができました。これは、大地震に対するパイプラインの耐震設計をする上での難題を解決するのに大いに役立つことになり、早速、実務設計に導入されることになりました。

企業では、実務経験を経てこそ、一人前の技術者と認められます。幸いなことに、海外工事プロジェ クトを担当して入札、設計、現地製作、工事施工、納入までの一連のプロジェクトを現地工事担当も含めて実務経験することができましたが、これはプロジェクト・マネジメントとは何かを知る上で最高の経験になったと思っております。ところで、我が国のエンジニアは一般的に設計・施工管理において国内ルールは熟知していますが、国際標準には疎く、英語ドキュメンテーション能力については、30年前も現在も同様に十分とは言えません。これからの時代、企業が国際化するには、エンジニアもやはり国際標準の技能を持った人材でなければ国際的に太刀打ちできません。自分自身の経験では、やはり若い内に海外実務を経験する中で己を鍛えることが必要と思われます。

一昨年の東日本大震災で、東北地方沿岸部の諸都市は津波により大災害を被りましたが、仙台市は2週間後に都市ガス供給を再開することができました。これは、ガス製造所は津波で崩壊したものの、日本海側からのガス供給パイプラインが生き残ったお陰で、仙台市へのガス供給が継続できたためでした。この長距離ガスパイプラインの建設に関わった1人として、このニュースを聞いて大変誇らしく思った次第です。このパイプラインは、1990 年代前半に建設されたものですが、当時の国内パイプライン建設市場は各種の規制に阻まれて、国際的には数倍から10倍近い高コスト体質にありました。しかし、このパイプラインは、当時の常識を一つ一つクリアして、低コストの工事を完成させた画期的なものでした。そして、今回の大地震に際して十分にその耐震性能を発揮したことで、低コストでも、耐震安全性が十分であったことが実証でき、工事に関わったエンジニアとしては嬉しい限りでした。

その後、研究所所長・関連会社事業部長の経験は企業管理者のマインドを知る機会となり、物事を決めるプロセスにおける意思決定と投資の関連を実務的に考える際の貴重な経験を得ることができました。

企業生活25年目のとき、管理職の会社生活に展望を見いだせず、人生の活躍の場をアカデミックな分野に変更したい思いが募り、大学に移る決心をしました。

我が国の信頼性工学の権威である故星谷 勝先生の後任として、武蔵工業大学(現東京都市大学)に職を得たのですが、星谷先生の定年までの2年間は毎日の昼食時が研究討議の場になって大変面白い日々を過ごすことになりました。この時の議論と企業時代の管理職の経験は、プロジェクトのリスクマネジメント、インフラシステムの維持管理における意思決定問題を考える上で大変参考になりました。 このような経験を経て、大学での研究テーマとして、実社会の都市ライフラインインフラの耐震性能を改善するには、どうすればよいのか、設計・維持管理で最適な方向への意思決定を行うためのリスクマネジメント研究などを行うことになった次第です。

2011年に、母校に帰ることになりましたが、企業が国際的競争の世界で如何にして生き残るか必死に悪戦苦闘している状況に比較して、京都大学のみならず日本の大学は一部を除いてまだまだ事態の切迫感が乏しいと感じました。その中で、着任しました地球工学科は、学部1回生から英語のみの講義を行う国際コースを設置したり、アジア圏での国際連携を強めるなどの外形的対応では学科全体が一丸となって意欲的に取り組んでいましたが、教員構成での外国人比率は依然として低いなど取り組むべき課題も山積しているとの印象でした。この状況に少しでも貢献できるようにと、土木学会にJournal of Disaster Fact Sheet を創設、英文図書Handbook of Lifeline Engineering の発刊あるいはフィリピンの De La Salle 大学との共同研究(JICA AUN/SEEDNet Project)などに取り組みました。そして、学内ではやはり企業での実務経験と研究の関係、研究テーマ発見のプロセスなど、自分自身の経験をそのまま学生諸君・若手研究者に伝えるのが最大の仕事 と思い、日々研究室で顔を会わせる学生諸君との discussion の機会を楽しみにしてきました。

この随想は、学生諸君・若手研究者諸氏に伝えきれなかった点を少しでも補うつもりでまとめたものとご理解戴ければ幸いです。

(定年退職教授 元社会基盤工学専攻)