京都大学の将来に期待する

三浦 孝一

三浦忘れもしない、兵庫県竜野市誉田町という田舎で昭和42年3月20日の夜に合格電報を受けとった。団塊世代の厳しい受験競争から解放されて、「これから本当の勉強ができる。」と、天にも舞い上がる気持ちであった。修学旅行以外は外泊経験がない世間知らずであったため、京都という「大都会」での一人生活のスタートは心細いものであったが、それから46年間、まさに人生の大半を、1年間のカナダ留学以外は京都大学から一歩も出ることなく過ごしてきた。社会的には、世間知らずのまさに井の中の蛙である。46年は、純真な学生が、何事もわかったような“おとな”へと変化する過程でもあった。

過ぎ去った年月をふり返るといろんなことが頭をよぎる。その一つは、昭和44年1月末の後期入試開始の前日に開催された教養部代議員大会である。 無期限ストライキが可決されたのである。その日から教養部はバリケードで囲まれ、その後数年にわたる京都大学の学園紛争の始まりであった。ノンポリ学生を巻き込んで、多くの学生が大学や日本の行先 を“まじめに”考えた。ときには暴力騒ぎで機動隊 が導入されたこともあったが、紛争の混迷の中でも 京都大学構成員の良識は保たれていたと感じたものである。特に、ノーベル賞を受賞される前に福井謙 一先生が紛争時に工学部長を務めておられたとき先生に接する機会があったが、一言で言うなら先生の “泰然とした態度”に、京都大学で学んでいることの幸せを感じたものであった。

私の専門は化学工学であるので、この学問の性質 からは産業界で働くのが正道と思われたが、人生の分岐点での選択を後回しにしたせいで、助手、助教授、教授の途を歩むこととなった。この間、できるだけ「世の中の役に立つ仕事がしたい」との思いで、エネルギー・環境問題の解決を目指して、「石炭を クリーンにかつ大切に使おう」を合言葉に研究に取 り組んできた。教育面では、専門である反応工学に加えて熱力学や物理化学を担当する機会をもてたこ とは幸せであった。特に、エントロピーの概念は、 まだ完全に理解できているとは言えないが、エネル ギー・環境を論ずる上で必ず理解すべき概念と考え ている。研究面で後世に残る成果を挙げえたかは疑 問ではあるが、この途を歩むことができて最大の幸 福は、なんといっても優秀な学生諸君との日常的な 接触であった。おかげで、ともに学び遊んだ助手時 代から、自分の子供よりも若い平成生まれの学生に囲まれる年になるまで、青春のわくわく感を持ち続 けられた。ありがたいことであった。

話は変わるが、平成6年6月に京都府最南端の相楽郡精華町に引っ越した。大学が移転するとすれば西木津地区であるということを疑わなかったからである。ところが、どんでん返しのような決定で、9年半前に工学研究科だけの桂キャンパスへの移転となった。おかげで、京都府内にいながらバスと電車を5つも乗り継いで毎日往復3時間余を通勤に費やすという憂き目をみることとなった。しかし、振り返って、その3時間は実に有意義な時間であった。図書館であり、講義の予習時間、英語Newsを聞く時間、瞑想にふける時間、人間観察の場、また一時のまどろみを楽しむ時間でもあった。それで、都合5回電車を乗り過ごしたし、網棚に忘れものをしたのも5回は下らないが。

長い前置きは、通勤図書館で読んだ本の中で、最近特に感銘を受けた2つの本を紹介したいからである。その一つは、『日本の「情報と外交」(孫埼享、 PHP 新書p.174 ~ 175)』中の次の記述である。『米国における9.11 同時多発テロ事件は、米国情報組織に、情報処理のあり方の抜本的改革を迫っている。それは「need-to-know」から「need-to-share」 への変化である。訳すれば「知るべき人」への情報 から「共有」の情報への変化である。じつは、この変化は「トップにすべての判断を委ねることが、組織にとって最も望ましい」という発想から、「トップの決断・行動が、組織につねに最もよい結果をもたらすとはかぎらない。情報を共有することで、組織の個々が最善を尽くせるようにすることが組織にとって最善である」という思想への転換でもある。トップより構成員の良識を重んずる-画期的である。米国では革命的といってよい。』(念のために、これは日本の政府の話でも、関西のどこかの地方自治体の話でもなくて、米国の情報組織の話です。)  もう一つは、『死の淵を見た男-吉田昌郎と福島第一原発の500日(門田隆将、PHP研究所)』である。 この本は、平成23年3月11日午後2時46分以降、福島第一原発において、吉田所長を始めとする東電の現地職員と福島の自衛隊員が自己の責任を全うすべく働いた記録である。長くなるが、以下に「おわりに」中の記述を引用した。 『暗闇の中で原子炉建屋に突入していった男たちには、家族がいる。自分が死ねば、家族が路頭に迷 い、将来がどうなるかもわからない。しかし、彼らは意を決して突入していった。自衛隊の隊員たちも、自分たちが引き起こした事故でもないのに、やはり命の危険をかえりみず、放射能に汚染された真っ只中に突っ込んでいった。その時のことを聞こうと取材で彼らに接触した時、私が最も驚いたのは、彼らがその行為を「当然のこと」と捉え、今もって敢え て話すほどでもないことだと思っていたことだっ た。

事故の復旧のために第一の働きをすることになる 消防車とともに真っ先に福島第一原発に駆けつけ、復旧活動を展開した自衛隊員は、わざわざ私が取材にやってきたことに、こう驚いていた。「あたりまえのことをしただけです。自衛隊の中でも、あの時の私たちの行動は、今もあまり知られていないんですよ」 東電の現場の社員も、協力企業の人間も、あの線量が増加した中で働いた人々も、それと同じような認識を持っていたことに、私は驚きと共にある種の感慨を覚えた。』  最近、とみに国や大学を巡る状況が変化しつつあるようだが、ここに紹介した2つの本は、大学人が大学人としてなすべきことは何かを教えてくれているように感じるのは私だけであろうか。

最後に、46年を経てこのような拙稿を記すことができるのは、京都大学というまさに自由と良識の府の中で、恩師を始めとして多くの人に助けられてきたおかげであることを痛感している。伝統は塗り変えられていくものではあるが、良き伝統は守り続けてもよいのではとより強く感じる今日この頃である。京都大学を去りゆく老兵のつぶやきにおつきあいいただいたことに感謝したい。

(名誉教授 元化学工学専攻)