No.62 (2014.10) / 巻頭言 / 工学教育を担当して

工学教育を担当して

評議員・副研究科長 北村 隆行

kitamura.jpg何度読んでみても、京都大学の工学の理念は独特であると思います。それは、「学問の本質は真理の探究である」から始まっています。当然の一言ですが、一般社会には「工学」と「工業技術」とを混同する傾向もありますから、自らの立場や方向性を明確にするために敢えて冒頭に置かれたものでしょう。本来、技術は人類社会やその生活の質を向上させるための実践であり、工学という学問は技術に関する体系化された(されつつある)知識・知恵(すなわち、学術・学問)です。工学研究は技術の維持・発展のための基盤学理と新技術創造のための最先端学理を究める行為であり、工学教育はそれらの成果や考え方を次世代へ継承することです。上の一言は、工学の学問・学術としての考え方を明確にする意味もあり、京都大学らしい格調と感じています。ノーベル賞を獲得される先生を輩出できるのも、人類社会を基盤から支えるのも、京都大学の「工学」ならではと納得できます。「工学」が新しい学術基盤の概念までも産みだそうとするかのような気概さえも感じられます。

さて、工学の運営のお手伝いを仰せつかり、今春より教育を担当することになりました。昨今、外部からの圧力と称して様々な教育に関する要求が天から降ってきます。早速、その対処に追われ、理念と現実の狭間で溺れています。苛立つのは、要求の多くがGPA(Grade Point Average)やコースツリーのような道具の導入に関することであって、多分に外形を整えることのみに力点があるためです。すなわち、全体を見ずに道具の一面的な価値を強調し、その制度導入の有無にのみに対して飴と鞭が用意されているように見えます。また、変革への要求の性急さも気懸かりです。大学教育は1年周期の農業に似た性質を有しています。これは教育改良にも合理的な時定数があることを示唆しているはずですが、昨今は携帯機器の開発サイクルのような矢継ぎ早の改変が求められるようになっています。教育理念と相反する道具だ、現場・現状に合っていない道具だ、と批判したくなるものが並んでいます。一方、冷静に自分の心理を見つめ直しますと、教育の現場を考えるときには保守的になりがちな面があることも否めません。現状の教育システムに顕著な障害がないと、多忙な日々の中で無意識のうちに現状固定に傾きがちに陥ってしまいます。教育理念は崇高なものであるが故に抽象的であり、個々の道具に対しては何とでも批判できる根拠を与えていることも事実です。よく考えてみると、天から降ってきている道具も、うまく使うと大きな効力を発揮する面があります。

京都大学の伝統は、問題の本質に立ち返って個々の方策について議論をして、正論に基づく独自の方法を切り開いてゆくことでしょう。一方、自分はというと、ひとつひとつの道具の機能の多面性に考え込み、功罪いずれの方向もあることを認識して立ち往生している毎日です。自分ながら優柔不断に呆れ果てる私の無能力を救ってくださっているのが、工学教育制度委員会です。学部(工学部)と大学院(工学研究科)に分かれていますが、ここでは工学部教育制度委員会を中心に紹介を進めましょう。工学の中でもっとも忙しい委員会のひとつであり、工学部6学科の代表委員と教育関連に造詣・経験の深い委員に加わっていただいています。また、機動的な運営のために5つの専門委員会が設置されています。教育制度委員会は月1度の定例開催ですが、毎回溢れるほどの検討項目があるため3時間以上も激論が交わされることも珍しくありません。その原因は、工学部における教育に関する活動の結節点であるためです。各学科の教育関係委員会はもちろんのこと、大学本部(教育システム関係、大学評価関係、入試関係、企画関係などの多くの委員会)、全学共通教育(国際高等教育院)、大学院教育(工学研究科教育制度委員会など)、組織運営(とくに、工学研究科運営会議)、工学の事務組織(もちろん、全学の事務組織と繋がっている)と深い関係があり、情報がすべて集まる仕掛けになっています。そして、守備範囲は、学生が入学する前の高大連携から卒業後のアウトカム評価まで気の遠くなるような領域をカバーしています。学生の生活や気質、国際性まで関連してくるから、話はとてもややこしいのです。このネットワーク中を氾濫する情報や内外の要求を交通整理しながら、工学部の日々の教育およびその将来の発展を考え・実行してゆく職務の委員会であり、委員となられた先生には気の毒なほどの業務をお願いしています。委員の知恵を寄せ集める真剣な議論が最高のFaculty Developmentであるとともに、その具体案決定のための検討が現場と理念を繋ぐ工夫と苦悩のプロセスです。早急に検討しなければならない現状の課題を書き出すだけで、各学科のポリシー作製(アドミッション、カリキュラム。ディプロマ)、定員超過問題、授業アンケート、国際化対応学事暦(クォーター制)、専門科目cap制、全学共通教育新時間割・群変更対応、学習成績解析、コースツリー、ナンバリング、GPA、卒業生アンケート、TA研修、留学生関連、講義シラバス・・・・・・・と、本稿を埋め尽くすほどあります。もちろん、日々の教育を円滑に行うための定例課題の検討があった上でのことなので、眩暈のするような委員会になるのは当然のことかもしれません。

「楽観主義者の未来予測」なる本(ピーター・H・ディアマンディス&スティーヴン・コトラー著、熊谷玲美訳、早川書房)を紹介されて、読み始めています。それによると、人間は悲観的なニュースに敏感になりがちだそうです。原始時代からの習性からか、脳の早期警戒システムが不確実なものに強く反応し、いったんスイッチが入ると脳は緊張をなかなか解きません。そんな生物学的・心理学的な要因による悲観の蔓延の一方で、実際の多くの人の生活は以前と比べて格段によくなっているとのこと。近代・現代の世界の発展経緯からは、意外にも?、楽観的に未来を見る方が理にかなっているそうです。確かに新聞報道等における物事の将来傾向に関する記述を思い起こすと、悲観論に傾きがちに見えます;環境問題、食料問題。現在の世界に起こっているる事象は複雑に絡み合っており、その不確実性がさらに悲観の大洪水を産み易くしています。楽観主義の著者は、それらの複雑な事象群には要となっている要素があり、それを解決すれば正の連鎖が生じて明るい未来が来ると主張しています。ただし、その難問を解く鍵は、過去もそうであったように、テクノロジィの革新であると繰り返し強調しています。もちろん、ひとつひとつの具体的なテクノロジィの発展は、膨大な数の工夫と試行錯誤に基づく血の滲む努力による人類の知の獲得の成果であったでしょうし、今後もその努力が不可欠ということです。

複雑に絡まった工学教育を考える中で、悲観主義者の未来予測に陥っている自分を発見します。不確実なものへの備えは重要ですし、現状をさらに良くするための改革への駆動力のひとつが危機感であることも確かです。しかし、過度の危機感に基づく焦燥・悲観が、往々にして症状を悪化させる選択に結びつくことに注意しなければなりません。むしろ、工学の学術的本筋からすれば、昔と比べて着実に良くなっている点を認識し、明るい(楽観的な)未来を切り開く要に焦点を合わせた改革の具体案(概念や道具の導入・改良を含むテクノロジィ)を考えることでしょう。楽観論こそが具体的で強力な変革と努力を必要としているのです。率直に見渡せば、異論はあるでしょうが、教職員の教育への自覚、学生や教職員の国際感覚、教育情報システム・設備等の環境、などの多くの基本要素は、昔より格段によくなっていると思います。天から降ってくる道具に対しても、楽観的な将来予測からの必要性に基づく選別を考えたいと思います。

将来は楽観的か、または悲観的か、の心情はともかくとして、先の本で指摘される人類の将来とテクノロジィの関係は、京都大学の工学の理念「工学は人類の生活に直接・間接に関与する学術分野を担うものであり、分野の性格上、地球社会の永続的な発展と文化の創造に対して大きな責任を負っている。」と共鳴しています。すなわち、工学(テクノロジィの知恵)が他分野と密接に協働することが、人類の将来を担う最重要学術の創造であるとのことでしょう。私は、工学の一端で教育・研究を続けられることを、たいへん幸せに想っています。

(教授 機械理工学専攻)高分子の花.jpg