石油開発工学と共に歩いて来た道

松岡 俊文

matsuoka.jpg今般、長くお世話になった京都大学を定年退職することになりました。縁あって京都大学に着任以来、あっという間の16年間でした。京都大学に奉職する以前の私にとって、京都は修学旅行と、新婚旅行、そして学会参加のために訪れたことがあるだけの街でした。古い街並みも、碁盤の目の通りも、哲学の路も、そして通りの名前を覚える童歌も、全くなじみがない私でした。そんな知らない街に住み着き、楽しくやって来られたのは、諸先輩や、同僚諸兄、そしてなんと言っても若い学生諸君がいたからとあらためて感じています。赴任当時、自由な校風の中で斬新なアイデアを使って颯爽と研究を進めている教員と学生の姿には、大いに刺激を受けたものです。このたび大学を去るにあたって、これからの日本を背負って行く京都大学の先生と学生諸子に向けて、大学人の一人として歩んだ道程を書き残すことも、それも年寄りの役目かと思い本稿を草しています。

学生時代は物理学を修めながらも、ひょんなことで石油開発会社に就職することになり、石油開発工学で利用される物理探査という非常に狭い学問分野へと足を踏み入れることになりました。石油開発工学は資源工学の一分野として発展してきました。資源工学のターゲットは、石油ばかりでなく、地熱、金属鉱物、石炭などの開発にかかわる一切の工学的な問題を取り扱っています。そのためには地下の可視化が必須であり、私が専門とした物理探査は、ターゲットが持っている物理量(密度、弾性率、比抵抗など)の違いに着目し、これらを観測し、地下を可視化する方法論です。

一人一人に生きてきた個人史があるように、どんな学問分野であれ、その変遷は時代の流れや世情の変化と離れて語ることはできません。明治から大正、昭和へと時代が移っていく中で、富国強兵、あるいは戦後復興のために、多くの大学において資源工学の技術者が国家を支える重要な人材として育成され、そして多くの技術開発がおこなわれてきました。私の専門である物理探査の歴史を紐解くと、その技術の変遷は大変興味深く、30年毎に生じる大きな技術革命が見えてきます。石油開発工学の一分野として1930年代に誕生し、現場重視の技術開発が続けられ、地下構造を知る技術は多くの油ガス田の発見に貢献しました。次に1960年代は、ディジタル革命による現場でのデータ収録技術の開発と、計算機を使ったデータ処理が導入された時代です。その結果、地下情報の質的向上により地質解釈と評価法において「地震層序学」と呼ばれる一つの新しい学問分野が創出されます。そして1990年代以降、3次元地震探査法の常態化と、インバージョン処理による地層の詳細な物性表現が実現し、3次元地下可視化技術が完成してきます。その結果、堆積学分野において「Seismic Geomorphology」という新しい学問分野が作り出されます。技術革命が起こるとそこに新しい学問分野が生れ、そして新しい産業が作り出されるという、これはその一つの小さな例と言えるでしょう。

私がこの世界に足を踏み入れたのは、1975年に修士課程を終えてからでした。つまり、1960年代のディジタル革命の成果が一般に流布され、計算機に関する知識を持った多くの技術者が必要とされていた時期でした。しかしながら技術革命期の持つ疾風怒濤の時代は終わりつつあり、研究開発テーマの発掘は落ち穂拾い的でした。残されているのは非常に困難なテーマか、あるいは力業が必要なテーマでした。そんな中で幸いな事に、たまたま面白いテーマに出会うことができて、当時の恩師と書いたIEEEのProceedingの論文が認められました。幸運な出だしだったと思っています。

そして1990年代、大きな技術革命の波が襲ってきます。それまで観測できなかったような種類の大量のデータが、簡便に安価に観測できるシステムが構築されてきます。どんな学問分野も同じだと思いますが、革新的な観測技術は、それまでの対象物に対して全く別の様相を見せることがあります。石油開発工学分野でこの技術革命を牽引したのは、研究開発費を湯水のごとく利用できた欧米のメジャー石油会社でした。弱小とはいえ、日本企業としてもこれに遅れを取ることはできません。私は当時まだ世に出たばかりの並列計算機を買ってもらい、研究開発チームを率いて幾つかのプロジェクトを進めていましたが、一企業内でできることの限界も感じていました。そのような折、幸運にも京都大学での採用が決まり1998年の3月に赴任の運びとなりました。当時私は48歳となっており、大分ガタがきた身でしたが、青雲の志をもって上洛したつもりでした。

「大学はシーズを作り出し、産業界のニーズに答えよ」とよく言われますが、大学に来てみて産業界との違いを知ることになりました。当然のことながら、大きなグループを組織しビッグプロジェクトを進めることは、新参の助教授では不可能でした。一方、学生数だけのプロジェクトを立ち上げられることも知りました。毎年研究室に入ってくる4回生の人数に合わせて4つ、修士を卒業するまでの3年間のプロジェクトですが、合計で最大12個の違ったプロジェクトを並行して走らせることが可能であることに気づいたわけです。シーズ作りですから、基本はゼロから始めて民間企業に興味を持ってもらえるところまでいけば、それで良しと悟りました。赴任した当初のこの戦略なき戦略は「数打ちゃ当たる」というもので、学生ができる範囲で広くテーマを増やしたものです。そんな状況の中で、私の興味を引く分野は徐々に広がって行き、異分野であってもそれなりの研究成果を出せるようになってきました。一方、住み慣れた物理探査という分野での次の大きな技術革命は、歴史の教えるところによれば2020年頃であり、その時には私はもはや第一線を離れていることが気になり始めました。

人生にはいくつか運命的な出来事がありますが、私の場合は寄付講座を作るという機会に恵まれたことです。幸運にも石油会社から申し出があり、石油開発工学に関連する寄付講座を2007年の春から立ち上げることになりました。ご承知のように時限付きの講座ですから、専攻内の講座とは異なり、テーマも冒険的なテーマを選ぶことが可能です。世界の石油開発工学分野を広く眺めると、日本とは異なり化学工学を専攻した技術者も多く、第一線で活躍しています。原油は有機化学の専門家が扱う物質であるという原点に立ち戻って、石油開発工学に新風を吹き込むにはどうしたら良いかを、少し考えることにしました。その結果、今や日常的な道具となった第一原理計算や分子動力学を自由に操れるMITのポスドクを助教に招くことにしました。期待したのは、新しい道具を使って地下に眠っている油や天然ガスの性状等を計算してみようという目論みです。石油の貯留層は、岩石を構成する鉱物と、地層水と、多種多様な炭化水素が作り出す世界で、これを計算機上に分子レベルで再現したものをDigital Oilと呼ぶことにしました。

石油開発工学の技術者にとって、地下での原油の性状を知るための各種試験と実験は必須です。しかしながらこれらの実験には時間と多大なコストが必要であり、条件を変えて多くの実験を試みることは大変です。これを計算機上で再現するのが、当面の目標です。2007年に始めたこの試みは、何とか軌道に乗ってきて、昨年の3月に京都においてSPE(Society of Petroleum Engineers)と開催した「Nanotechnology and Nano-Geoscience in Oil and Gas Industry」という国際会議にたどり着きました。我々はDigital Oil世界の構築にはNano-Geoscienceと呼ばれる新しい学問分野が必要であると考えています。分子レベルでの挙動を見ることができる実験装置と、第一原理計算や分子動力学などの解析手法が道具立てです。 

技術革命を作り出すには、運と人が必要ですが、この両方に恵まれていたと感じています。石油開発工学の世界でも、Nanotechonology技術が利用され始め、ナノの世界になじみが出てきた時でした。また原子・分子レベルでのシミュレーション手法が完全に確立し、この手法を道具として自由に利用できたことも幸運だと思っています。そして5年間の時限付き寄付講座は解散し、最初に手伝ってくれたMITから来日した助教は、ブラジルのサンパウロ大学の物理学の教授に栄転し、今では石油大国のブラジルでNano-Geoscience分野の牽引者です。

私の学問における人生は、このように多くの運と、多くの人たちから支えられてきました。その中で学んだ教訓は、学問の歴史の流れの中で、自分がいる位置を常に自覚し、発展していく方向を予測して自分の身の振り方を決めるということです。時代の波を読むことは大変難しいわけで、研究資源のポートフォリオを考え、谷の時代は身をかがめ我慢をし、山の時代には深追いせずに、次の谷が来る前に新しい波に乗り移ることを恐れないことです。これは無手勝流の戦略を用いていた時代に学んだことかもしれません。筆を置くにあたり、このような生き方をしてきた大学人もいる事を、若い諸君に知ってもらい、何らかの参考にしてもらえるならばこれほど嬉しいことはありません。

(名誉教授 元都市社会工学専攻)