「正解」とは?

山本 裕

yamamoto.jpgいつの間にか世の中は入試シーズンとなり、センター入試や二次試験の準備で慌ただしい。そういえば今年は世界史で正解の可能性が二つある問題が出題されたそうで、入試センターがその対応に追われていたようである。

見てみると、句読点の打ち方で二通りに読める可能性があったようで、ある種単純なミスとも言え、この程度で大騒ぎするのは何やら気の毒なような気もする。

とは言え差をつけるための入試で正解が一つに定まらないと、採点に苦労するのは明らかで、こういう誤解を排除するための出題者のご苦労も並大抵ではないであろう。少しく同情してしまった。

こういうことがあったからか、近頃気になる傾向があるのを思い出した。

いつごろからだろうか。講義をしている時、あるいは研究室でセミナーをしている時にさえも、何故か“早く正解が聞きたい”という雰囲気を以前に比べてより強く感じるようになった。口に出して「何が正解ですか?」と訊かれたこともある。これだけでは曖昧かもしれないので、状況を説明したい。

ここ何年か、工学部1回生に「自然現象と数学」という科目を教えていた。目的とするところは、いわゆるゆとり教育を受けた世代において、高校での数学教育の比重が減少した結果、大学での数学とそのものの考え方に適応するのが困難な学生が増えることを想定し、1回生に伝統的に講義されてきた微分積分学、線形代数学への橋渡しを行うというものである。またその内容として、自然現象や数学に題材を取り、数学が如何に近代科学、あるいは工学の根底を支えているか、したがって全体の基礎を支える上で如何に重要であるかを講義すること、あわせてこれらの数学を学ぶ上での動機づけを強めることとなっていた。

取り上げたテーマは様々であるが、例えば自然常数eの起こりと意味、アルキメデスによる放物線の求積法、などなどである。学期末にアンケートをとるのだが、10%以上の学生が数学は世の中に全く役に立たないと思っていたと回答し、驚かされた。必要な計算はコンピュータがやってくれるので、数学を勉強するのはむだであると本気で信じている学生もいた。

全員ではないにしても、かなり目立つ傾向として、与えられた問題があり、それには唯一正しい解、あるいは正しい解法が存在すると信じているらしいことが分かってきた。もっと踏み込んで言うと、講義で提示される様々な問題とその解法があり、それらをできるだけ沢山身につけて、あるいは暗記して良い点数を取り、かつそれらの集積の上に学問の頂点がある、と本気で信じていそうなのである。

ならば、できるだけ早く「正解」を教えてもらい、それをどんどん覚えるほうが手っ取り早いであろう。全部が全部そういう学生ばかりではないが、4回生で講座に配属されて来た学生でもかなりの比率でそう思っているものは最近少なくないように感じている。

言うまでもなく、学問の真の意義あるいは醍醐味は、何らかの課題があり、それがどのような形をとるかわからない所からその定式化を考え、それに対して今まで知られていなかった解(単純に解法とは言えないであろう)を与える、あるいはそれに至る道筋を見出すことにある。すでに定式化された問題の捉え方や、よく知られた解法などは、そのような先人の営為の帰結であり、それを固定化したものとして講述し、身につけさせるといったことは、本来は二義的なものといえよう。むしろそれらの努力の過程から、現実の問題に切り込む姿勢や発想法を学び、それを自らの力として活かすことこそが大学における教育の目的であるべきである。

数学などであると、とかく確定した問題があり、それに対する解はただひとつに定まると、世上信じられているきらいがある。あるいはそれが学生諸君の誤解を生んでいるのかもしれないが、問題を課題と言い変えてみると、その解が唯一であるなどと単純に信ずることは難しくなってくる。問題、従ってその解も定式化によって変わるからである。

真理は一つであるという言い方もある。究めればそういうことも言えるかもしれない。しかしここでいう正解は一つというのはそれとは少し違う。多くの場合には、真理にせよ正解にせよ、与えられた条件のもとでは、という制約がつくのが通常である。

振り返って考えてみると、学生諸君の過去の、つまり大学以前の教育はすべて、与えられた問題があり、それに対して唯一の正解があるというものばかりである。高校卒業までの教育の目的となっているといって過言ではない。その集大成が大学入試で、唯一の正解があるように十分検討された上で問題が出題されることになる。

入学試験において、問題に曖昧性があっては公平の原則にもとることになるから、これは当然ではあろう。しかしこのような難関をくぐり抜けてきた学生諸君が、世の中の問題はすべて正解が与えられた問題であり、それを知られた解法や知識に当てはめて解くことが学問をすることであり、ひいては人生の勝利者となる道であると錯覚するのもありそうなことである。我々教師はそれを簡単に責める術を持たないのではあるまいか。

競争試験であってみれば、試験結果の公平性、透明性が何よりも優先するのは必然の流れではある。古くは中国に科挙というものがあった。そもそもの起こりは家柄ではなく広く人材を登用するために導入されたもののようで、画期的な制度だったらしい。しかし時代を経るにつれ、制度が硬直化し様々な弊害が目立つようになり、そのようなものの代名詞となってしまった。

しかし私達は今日この科挙の弊害を笑って済ますことができるのであろうか。公平性の原則のもとに、解釈の多様性を排除することが却って個人の自由な発想の発露を妨げる元になっているとしたら、皮肉と謂わねばなるまい。

そもそも人は、学問に何を期待するのだろうか。世の中では、それを学んだものが唯一正しい真理を身に付けることであると期待されているのではないか。いわば絶対的な無謬性への信仰である。

むろん、科学や学問は真理に近づこうと努力はしている。何でも真理であり得るというような命題は、無責任な不可知論でしかない。しかし、一方では学問における真理は、時間と環境(条件と言っても良い)の関数であり、人間の智慧が有限である以上それは避けられない。

その前提を考えるとき、あるいは学生諸君に講述するとき、多くの非常に不安げな視線にさらされることがある。学問の無謬性への無邪気な信頼はそこで強く生きているのを感じざるを得ない。そして、それがこれまで彼らが受けてきた教育の有り様、あるいは無謬性の誤謬の帰結であることを時に思わざるを得ないのである。

でき得れば、過度な競争を入学時に課することなく、条件の許すもの、向学心のある人材を広く受け入れ、教育の過程で選抜淘汰されていくアメリカのようなシステムが望ましいかと思うが、日本の現状では難しいのであろう。今般特色入試という新しいシステムがスタートすることになったが、その前途がどうなるか、注意を持って見守る必要があると思う。

(名誉教授 元情報学研究科)