異なるものとの出会いのすすめ

門内 輝行

門内名誉教授実際に定年を迎えてみると、色々な感慨がわき上がってくるものである。この機会に学生時代から今日に至るまでの経緯を振り返り、その感慨の一端を記しておきたいと思う。

私が京都大学に入学したのは今から47 年前の1969 年であるが、当時は全国的に学園紛争が吹き荒れ、東京大学の入試が中止となり、京大の試験会場も宇治のグランドに建設されたプレハブの建物に変更され、大雪にも見舞われ、冷たい水浸しの靴を履いたまま受験したことが懐かしく想起される。入学はしたものの秋も深まる頃まで授業はなく、クラスの仲間たちと社会問題について熱い議論を交わす一方で、有志で様々な自主ゼミを組織し、例えばたまたま出会った教養課程の数学の先生に頼んで『極限論と集合論』(能代清著)をテキストとして実数の連続性について学んだこと(“デデキント切断”など)は、不思議とよく覚えている。

学部3 回生の頃には、課題を与えるだけで設計のやり方を教えない「設計演習」に疑問を抱き、設計方法を考え始め、『設計方法』(日本建築学会編)という書籍を見つけ、関連文献に目を通すようになったが、それが「デザイン方法論」の研究の端緒となった。また、4 回生になると、当時の田中喬助教授のゼミでC. ノルベルグ=シュルツの“Intentions in Architecture”を読み、建築のはたらきを解明する「建築論」が「記号論」(semiotics)に依拠して展開されているのを学んだことが、現在の「建築・都市記号論」の研究へとつながっている。こうして学部時代に「デザイン方法論」と「建築・都市記号論」というその後の研究の2 つの柱を得ることができたが、その意味で京大が私の研究活動の原点を与えてくれたと考えている。

大学院は東大に進学し、上記の『設計方法』をまとめた池辺陽教授の研究室に所属し、設計方法の研究と建築設計の実践に力を注いだ。特に、修士課程の2 年間に住宅の基本・実施設計から現場監理まで担当できたことは、かけがえのない経験となっている。また、C.S. パースの記号論の研究会もあり、大学院で記号論を発展的に学ぶ機会に恵まれたことも幸運な出会いであった。さらに、博士課程2 年のときから武蔵野美術大学造形学部の非常勤講師に任用され、バウハウス、ウルム造形大学の流れを組む基礎デザイン学科で教鞭を執ることができたことも、視野を広げる上で貴重な経験となった。

その後、博士課程3 年の途中から東京大学生産技術研究所助手に採用されたが、1 年半後に池辺先生が病で他界され、原広司助教授(後に教授)の研究室に移籍し、原研究室で研究活動を展開することになった。原先生は、後に京都駅を設計された建築家であり、研究室には多くの優秀な人材が集まっていた。私自身は、デザイン方法研究から一旦距離を置き、世界の集落研究を進めていた原研究室の研究との親和性に鑑み、日本の伝統的街並みを対象とする「建築・都市記号論」の研究に力を注いだが、その成果をまとめた「街並みの景観に関する記号学的研究」により、日本建築学会賞(論文)を受賞し、景観研究の世界を切り拓くことができた。

池辺研究室の整理に区切りをつけた1979 年の夏、ウィーンで開催された国際記号学会の第2回会議に参加したが、そこで出会った早稲田大学の川本茂雄教授(言語学)から声をかけられ、1980 年に日本記号学会を設立することになったのである。早大の内田種臣教授(哲学)と私が事務局を務め、哲学、言語学、人類学、社会学、情報学、数学、デザイン、建築、映画、音楽、舞踊など、様々な領域の専門家を集めた学際的な学会を組織したが、そこでの異なる領域の人々との出会いは、その後の研究・設計活動の大きな糧となったことは疑いを入れない。実際1989 年に早大理工学部助教授に採用されたが、直接の契機は日本記号学会の設立をめぐる共同活動にあったわけで、思いがけない出会いの深遠なる意味を実感するところである。

早大では都市論を中心に理工学部の人文社会系の一般教育科目を担当したが、前任の政治学者から、事物としての建築・都市の講義をするのではなく、生命と暮らしをデザインすることに主眼を置いた講義をするように言われたが、蓋しこれは至言で、建築や都市も人間の生活を豊かにするための媒体として捉えるべきことを指摘したもので、今もそのスタンスは大切にしている。

2004 年に京都大学に戻り、建築学専攻において教育・研究・社会貢献活動に全力を尽くしてきたつもりである。その年は国立大学が法人化し、建築学専攻が桂キャンパスに移転した年でもあったが、研究の原点を与えてくれた母校で学生たちを育てられることは大きな喜びであり、日々の営みを着実に積み重ねることを心がけてきた。研究室のコンセプトとしては、「主たる研究分野は、建築・都市記号論、及び設計方法論に関する研究である。さらに環境の知覚・行動・認知に関する研究、及び生活環境のデザインとその評価に関する研究へと広く研究を展開している。これらの研究を基底として、複雑な人間-環境系を解読し、それを豊かな生活環境のデザインに統合していくシンセシスの科学の構築とデザインの実践を推進する」と説明しているが、優秀な学生、卓越した教員、気配りに満ちた職員との出会いに恵まれ、建築から都市まで、理論から実践まで、自由に研究・教育活動を展開でき、本当に幸せであったと実感している。

この間、異領域の教員や学生たちとともに、学術創成研究(記号過程を内包した動的適応システムの設計論)、グローバルCOE(アジア・メガシティの人間安全保障工学拠点)、博士課程教育リーディングプログラム(デザイン学大学院連携プログラム)といった学際的な研究・教育活動に取り組むことができたことも、京大だからこそ得られた貴重な機会と考えている。特に、2012 年からスタートした「デザイン学大学院連携プログラム」(通称:京都大学デザインスクール)の構築に関与できたことは、やりがいのある仕事であったと感じている。これは、個々の人工物を超えて、社会のシステムやアーキテクチャをデザインできる人材の育成を目指して、情報学・機械工学・建築学・経営学・心理学及び芸術に関わる教員が協働する教育プログラムであるが、私にとっては「デザイン方法論」と「建築・都市記号論」を統合する研究・教育活動の集大成とも言うべき内容を含んでいるからである。

京大に戻ってから展開できたもう一つの活動は、行政、コミュニティ、企業等と共同して取り組んできた社会貢献である。京都市では、美観風致審議会を通じて景観行政に深くコミットするとともに、市庁舎、市立病院、美術館、岡崎エリアを始めとする種々のプロジェクトに関与しているし、京都府でも景観審議会、スタジアムの建設などに関わっている。景観まちづくりを推進している下京区修徳学区のコミュニティ、小学生とともにブックワールドをデザインした京都市立洛央小学校との協働なども、学生たちにとって大きな学びの機会となった。 京大を卒業後、東大、早大を経て、原点である京大に回帰したわけであるが、改めて実感していることは、京都は全体を見渡すことができる、総合性や学際性を育むのに適した場所だという点である。東京は何でもあるけれども、お互いの距離が離れているのに対して、京都は異なる要素が近傍に重なり合って存在しており、相互の関係が発生しやすいのである。私自身、この12 年間に多くの異なるものとの出会いに恵まれ、実に多様な問題やプロジェクトに取り組むことができたように思う。

こうして遭遇した様々な出会いを踏まえて、物質的な豊かさや利潤の最大化を目指した20 世紀の工業社会を超えて、豊かな生命と暮らしを育むことを目指す21 世紀の知識社会では、自由な学風のもとで物事の本質を深く探究し、総合性・学際性を志向する京大のアイデンティティは、これまで以上に重要な価値を持つことになると考えている。学生諸君には、特に若い頃には異なるものとの出会いを求めて、京大の精神を持って外に出て冒険してみることも大いに推奨したいところである。

(名誉教授 元建築学専攻)