センター試験の廃止に寄せて

白井 泰治

白井先生写真2013年10月、教育再生実行会議(安倍晋三内閣官房)が、知識偏重、一点刻みの大学入試見直すために、大学入試センター試験を廃止し、思考力などを問う共通試験を導入する改革を提言した。この報道に接して思わず我が耳を疑ったが、久方ぶりに我が意を得たりという気分になった。私は、かねがねセンター試験廃止論者である。

京都大学工学部の助教授の頃、所属研究室に学生が配属されてきた。研究テーマを与える際に学生のやる気を引き出すつもりで、「このテーマは教科書を書き換えるかもしれない。」「この問題の答はまだ誰も知らない。」と言うと、「先生やめてください。僕は答のある問題の答を速く求めるのが得意なんです。」と真顔で言う学生がいた。

大阪大学工学部に研究室を構えた頃、毎年成績トップクラスの学生達が研究室に配属されてきた。とりわけ成績優秀な一人の学生の事をよく覚えている。研究テーマを与えるときちんと実験結果を携えてきて、「結果はこうなりました。次どうしたらいいでしょうか?」と真剣に聞いてくる。得られた結果をどう考え、次どのような実験をすれば良いのか自分で考えるように促すが、それができない。4年生、M1、M2 と3年間同じ訓練を繰り返したが、結局自分の頭で考える人間に戻す事はできなかった。

京都大学工学研究科に戻り学生達に研究発表をさせると、学部生、大学院生を問わずほぼ全員が、自分の実験結果が如何に過去の報告と矛盾しないか、如何に既存の理論と矛盾しないか説明する事に汲々とする。過去の結果の延長なら研究する意味がないこと、再現性を確認できた実験結果が予想と反している場合、必ず(大)発見に結びつく事を口を酸っぱくして言い続けてきた。

上記の学生達に共通するのは、与えられる事や決められた事は効率よく覚えてこなすが、自分の頭で主体的に考える能力、自ら課題を発見する能力、答のない問題を解決する能力等が欠如している事である。国も産業界も大学も、こんな人材を求めていない。身近な幼児をよく観察すると、ほぼ全員が「何?」「なぜ?」「どうして?」を連発している。子供は生来、周囲をよく観察し自分の頭で考える能力を備えている。

ではなぜ日本人は18 歳までに、思考力と自主性を多かれ少なかれ喪失しているのか?幕末、明治、昭和、平成、どの時代に生まれた子供達も、同じ潜在能力を持って生まれてきたはずである。昨今の若者だけが、どこで思考力の芽を摘まれたか?私は大学入試特にセンター試験を頂点とする現在の日本の教育システムがすべての元凶と信ずる。理科や数学を例にとると、時間は掛かっても別の解法を見つける能力や、公式を用いず原理から解を導く能力が将来役に立つはずである。ところが現在の教育システムでは、教師が「そのやり方では時間が掛かるからダメ」「原理から解いていると時間が掛かるから公式を使いなさい」と教える。多くの場合、理解させる事を放棄し、公式の丸暗記とその適用練習や計算のテクニックのみを訓練する。このような教育?(訓練)を小・中・高と叩き込まれると、大学入学後に更生させる事はもはや不可能となっている事は上で述べたとおりである。

一方、センター試験をもとに生み出される偏差値の弊害はさらに大きい。自分が将来やりたいこと学びたい事に基づいて、大学・学部・学科を選ぶべきである。好きこそ物の上手なれではないが、その方が各人の能力を伸ばす事は自明である。この意味においても、センター試験による官制の偏差値が日本を継続的に沈下させている。京大医学部の先生方に伺うと、医者になりたい訳でも適正がある訳でもなく、ただ偏差値で医学部に入学してくる学生の多さに大きな危機感を抱いておられる。他方、大多数の受験生は偏差値の所為で意に沿わない大学・学部・学科を選択させられ、在学中のみならず社会に出てからも鬱屈した気分を背負わされる。全国の大学・学部・学科を偏差値でランキングすることなぞ、百害あって一利なしである。

私が高校生の頃250 万人近くあった18 歳人口は、今や半分以下の120 万人にまで減少している。センター試験を元凶とする今の日本の教育制度が、日本の将来を担うなけなしの若者を、年々歳々spoil し続けているのである。もちろん生まれ持つ能力に個人差があることは認めるが、各人が希望に満ちて100% 以上の能力を発揮する場合と、大多数が意に沿わない道を選びdepress された社会では、国力に大きな差が現れる事は自明である。最近の日本の学術研究、技術開発、経済活動を含む社会全体の停滞の根幹はここにあると思う。

最近日本のノーベル賞受賞者が増えているが、ほとんどすべて偏差値なぞ口の端にも上らなかった時代の方々である。この事実に将来の不安を感じるのは私だけではないと思う。

数年前に、文部科学省や大学入試センターの関係者、複数の大学の担当教員、さらに高校の進路指導教諭等が集まり、センター試験を含め大学の入学試験を議論する場が大阪大学理学部で開催された。冒頭に文部科学省の担当官が、共通一次試験導入の経緯から現在のセンター試験に至るまでの変遷を、弊害も含めて公平で客観的にプレゼンされた事に意を強くして、その後の意見交換の場で上記のセンター試験廃止論を述べたところ、以外にも多くの大学教授や高校教諭から賛同いただく事ができた。そこで、「少なくとも、諸悪の根源である官制の偏差値は一日も早く無くすべきである。年配者を除き、すでに多くの日本人はセンター試験が有る事が当たり前だと思っている。改革するのは今しかない。」と畳み掛けた。さらに、「今やなけなしの日本の子供たちを継続的にspoil し続ける事による国の損失を考えれば、大学入試センターの職員とその家族が生涯生活できる給料を支払い、センター試験を無くす方が国のためである。」とまで暴言を吐いたが、文部科学省の担当官は「その点はご心配には及びません。」とあくまで真剣冷静であった。冒頭の驚きと歓喜はこの時の経験に基づく。

内閣官房の教育再生実行会議の提言を受けて、中央教育審議会が知識偏重のセンター試験を廃止して、「思考力」「判断力」「表現力」等の真の学力を問う方策を求める答申を文部科学省に提出した。更に文部科学省の高大接続システム改革会議が平成20年度からセンター試験に代わる「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)を導入し、そこでは真の学力を問うために記述式の問題も出題するという。これを機会に、願わくは小・中・高校の教育が、子供達一人一人の「思考力」「判断力」「表現力」等の能力を最大限引き出す本来の教育に戻ることを期待する。大学では手遅れである事を考えると、小・中・高校教諭の給与を大学教員や一般会社員よりも高くして、より優れた人材を揃えてほしい。

記述式試験について、採点の労力や公平性の担保を危惧する向きもあるが、点数なぞは本来あいまいな方がいい。入学試験のための偏差値は無くなることがベストであるが、受験産業が商売として対応してくる事は目に見えており、その際精度は低ければ低いほど受験生ひいては国の為になる。

理想は結構だが、どうやって実現するのかと危ぶむ方も多いと思う。しかし頭の良い官僚や関係各位が方策を考え実現してくれる事を期待している。この点に関して思い出す事がある。かつて大阪大学工学部では、入学試験の英語にリスニング試験も取り入れていた。私が工学部の入学試験実施委員長の時、文部科学省の大学入試室長、係長、大学入試センター課長補佐等の関係者が、センター試験にもリスニングテストを取り入れる事を検討するために調査に来られた。私は、工学部入試に使う複数の試験室だけでも音声の聴取条件を平等にする事は困難であると力説し、全国で条件を揃える事は事実上不可能であると熱弁した。ところが蓋を開けてみると、ご承知の通り個別の再生器の配布でこの問題は見事にクリヤされた。そのとき備え付けのスピーカーからの音声しか念頭になかった私は、担当官らの発想の柔軟さに脱帽した。今回の大改革も、彼らの力量で実現されることを心から期待して止まない。

(名誉教授 元材料工学専攻)