「あの時、あの頃、あの想い出」

高岡 義寛

高岡先生写真いよいよ定年退職の日(平成28年3月31日)を迎えることとなった。振り返ってみると、あの時、あの頃の教育・研究について、いろいろな想い出が蘇えってくる。本学工学部を卒業し、大学院工学研究科(修士課程)に進学・修了して、電気メーカーに就職したが、学位取得のため同社を退職して母校に戻ってきた。昭和53年3月1日のことである。以来38年間、研究生、助手、助教授、教授として本学にお世話になった。助手時代の頃、研究面の活動では、クラスターイオンビーム技術の開発研究に従事していた。当時、イオン工学と云う新しい学術体系の確立が世に先駆けて提唱され、クラスターイオンビームの研究に夢中になっていた。学位を取得した後、恩師の薦めもあって、昭和56年6月から1年3ヶ月の間、米国のIBMトーマス・J・ワトソン研究所で客員研究員として共同研究を行う機会を与えて頂いた。初めての海外生活を経験し、英語でのコミュニケーションを通して、日本語的理解の曖昧さを痛感した。また、当時、研究所に在職されていた江崎玲於奈博士や村上正紀博士(京大名誉教授)など、多くの素晴らしい研究者との絆は良き想い出として忘れられず、現在も大切にしている。

イオン工学の研究を推進するための組織として、「イオン工学実験施設」(昭和53年4月1日~平成19年3月31日)が認可され、昭和55年4月に吉田キャンパスに工学部附属施設として、地下1階、地上4階のレンガ風の建物が建てられた。初代の施設長は、設立者であり恩師である高木俊宜先生(平成24年11月7日、ご逝去)であった。クラスターイオン工学に関する研究については、施設内にクラスターイオン工学領域部門が昭和60年4月1日に設置され、それまで得られた数々の研究成果をさらに展開することになった。また、日進月歩の激しいイオン工学分野の研究の現状に対応するために、平成元年4 月に西館が整備された。本館・西館の玄関には、「イオン工学実験施設」の名前が入った銘板が、現在も記念碑として残されている。

一方、教育面の活動では、電気系教室の3回生学生実験を担当した。助手として、初めて学生を指導した経験が懐かしく想い出される。当時、学生実験室は3 号館(電気系建物・北館)の地下にあって、階段を降りた場所に教官控室が設けられていた。その部屋の壁に、山本五十六の語録をコピーした貼り紙が無造作に貼られていた。「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ。」当初はあまり深く考えなかったが、研究室で学生の卒業研究を指導するようになった頃、学生を自主的に実験させるには、先ず「やってみせる」ことが重要であり、出来るようになったら、その後は「言って聞かせて、させてみて、ほめてやる」ことが必要であると感じた次第である。

昭和60年8月に助教授に昇任した。この時、電気系教室(電子装置講座)からイオン工学実験施設(クラスターイオン工学部門)に所属替えとなった。研究面では、引き続き金属クラスターイオンの生成とビーム応用技術の開発研究に従事した。産官学連携の大型研究プロジェクトが立ち上がり、米国のBell 研究所を始め、海外の研究機関との共同研究にも参画した。教育面の出来事としては、学内組織に大きな変化が生じた。平成5年~ 8年に大学院重点化によって工学部の講座は大講座制となり、教官は大学院工学研究科に所属して、学部の教育を兼担することになった。工学部附属イオン工学実験施設も工学研究科附属施設と改められた。

平成9年(1997年)6月18日、本学が設立されて百周年に当たる日であった。土木工学科と機械工学科に加えて、翌年(1898年)に電気工学科が増設されており、1998年には電気系教室においても様々な百周年事業が行われた。京都大学や電気系教室の百年の歴史を振り返る良い機会であり、いろいろな出来事が想い出された。例えば、入学時の1970 年頃の大学紛争もそのひとつであった。電気系教室においても、建物封鎖によって通常の教育・研究が不可能な状況になった。さらに、臨時職員の問題で団交が繰り返され、授業妨害も頻繁に行われた。京大百年誌に綴られたいろいろな出来事を思い出す中で、百年前の過去を振り返る機会は2001年正月の21世紀の始まりでも経験した。特に、2000年正月の新千年紀(ミレニアム)の始まりでは、数百年から千年単位で過去の出来事を振り返った経験が想い出される。その中で、様々な方々と時間の矢(流れ)について議論したことが懐かしく想い出される。エントロピー増大にしたがって時間は流れるだろう。今後、益々混迷の時代に突入していくだろうと危惧している。

長い助教授時代、教育面の活動では、電子工学専攻の協力講座(高機能材料工学講座)として、大学院の講義(高機能薄膜工学)を担当した。電気・電子工学専攻以外に、他専攻の学生も履修するので、毎回、出欠を取ることにした。選択科目にも係わらず効果は適面で、1限目の早朝授業にも係わらず、毎回、8割程度の出席率であった。当然、試験の成績も優秀な学生が多かった。自身の学生時代の授業と比較して、自学・自習を学風とする本学では、当時、出欠を取る選択科目の授業は極めて少なかったように記憶しており、学生気質の変化を感じている次第である。一方、学部教育に対しては、アドバイザーとして電気系教室の学部学生を指導した。ゆとり教育の影響もあって、学力低下の傾向が見られた。自学・自習の学習形態が崩れ、講義でなく授業の形態に重点が移されたと感じている。現在は18歳で選挙権が与えられ、入学時は大人の仲間入りする年頃である。大学に入学する学生には、大人としての自覚が求められる。学ぶことの意義を自ら見出し、自学・自習を進めてもらいたいと感じている。

教授に昇任した頃、イオン工学実験施設の桂キャンパスへの移転計画が始まった。それまで、候補地選びなどで計画は二転、三転していたが、平成15年4月1日に電気系・化学系の研究室の移転が実施された。現在、工学研究科は一部の専攻を除いて、市街地の吉田キャンパスから丘陵地の桂キャンパスに移転されている。ご存知のように、学部教育は吉田キャンパスで、大学院教育・研究は桂キャンパスで行われている。教員のキャンパス間の移動にはシャトルバスで1時間ほどかかり、不便を感じている方々も多いと思う。さらに、平成16年4月1日に国立大学の法人化が行われ、大学組織は大きく変化した。教官は教員と呼ばれ、退官は退職と呼ばれることになった。この大学法人化によって、教員数30人以下の研究所・施設は文科省直轄から外され、組織の運営については学内処置に任されることになった。定員3名のイオン工学実験施設においても同様な処置が取られ、これまでの電気系教室との有機的な連携は益々強くなった。

平成19年4月1日、イオン工学実験施設は改組され、附属光・電子理工学教育研究センターと名称を変えた。グローバルCOE プログラム「光・電子理工学の教育研究拠点形成」の受け皿の役割を担うことになった。研究面の活動では、複合研究ユニットを形成し、電気系専攻内の研究室間の枠、あるいは他の専攻間の枠を超えた融合分野で共同研究を行い、先進的研究分野の創出・展開を図ってきた。それまでのクラスターイオン工学の研究を継続しながら、学内外の組織との融合研究を行い、新しいナノプロセス工学分野を開拓してきた。教育面の活動では、それまでの大学院教育に関しては、電子工学専攻の協力講座として継続すると共に、幅広い専門知識を身につけた研究者の育成を新たに支援することになった。その一環として、グローバルCOE 関係の大学院後期博士課程の学生や連携教育プログラムの大学院学生を対象に、これまで8 回のセミナー道場を開催した。多くの学生が自ら切磋琢磨して得た研究成果について熱心に討論したこと、あるいは禅寺で坐禅を体験したこと、1 泊2 日の泊まり込みで先輩・後輩の垣根を越えて夜遅くまで議論したことなどが、懐かしく想い出される。

本学の教育・研究の基本理念に「地球社会の調和ある共存」が謳われている。人間社会を支えている地球の命を大切にし、地球と共生していく社会の構築が求められている。近年、自然災害の規模は大きくなっており、想定外の地震、台風、大雨などが発生している。人間の居場所である地球が悲鳴を挙げているように思える。自然に対して抱いている人々の不安を如何に少なくするか、科学技術に対する要求は益々厳しくなると思われる。それに併せて、将来を担う人材育成も重要な課題となろう。人間のあるべき姿(阿留辺畿夜宇和)を各人が自ら考えることが求められる。今後、大学の教育・研究に課せられる責務は益々重くなるだろう。最後に、京都大学を去るにあたって、多くの人々の助けもあって、これまで生きて、生かされ、人を活かす人生を送ることができたことに大変感謝していることを申し上げたい。工学部・工学研究科の益々の発展を心より祈念します。

(名誉教授 元附属光・電子理工学教育研究センター)