ジェネラリストとしての役割

大迫 政浩

大迫様写真11991年に博士課程衛生工学専攻を修了し、現在、環境省所管の国立環境研究所で資源の循環と廃棄物処理の研究に従事し、東日本大震災以降は、災害がれきや放射能汚染廃棄物の処理という難しい仕事に携わっている。組織のまとめ役という立場で、大学時代に教えられたジェネラリストの役割を強く意識して、社会に貢献すべく日々の仕事に取り組んでいる。

なんとなく自分に合っているのではという感覚で、1982年に当時の衛生工学科に入学した。工学系の中でも、人と社会そして環境との関わりにふわっとした興味を抱いて衛生工学を選択したが、その後のライフワークになるとはその時は思いもしなかった。当時は大気汚染や水質汚濁などの産業公害も一段落した時代だった。対峙すべき環境への圧力も意識できない平和な時代だったように思う。学部時代は、サークル仲間と毎日遊び呆けた記憶しかない。

一つの契機になったのは、卒業研究であったように思う。国の法律改正に資する科学的知見を提供するために、排水中の悪臭物質の気液界面における発散機構の研究を行った。詳細は割愛するとして、社会に役立つために手段としての学問があることを強く意識することができたように思う。衛生工学は人の命を衛る工学であり、当時は環境工学の色彩が強くなっていたが、環境問題の解決ために様々な伝統的学問を学際的に融合させた実学である。衛生工学におけるジェネラリストの必要性を教えられたのもその頃であった。

修士課程に進み、研究者として物事を突き詰めていく自分の姿もイメージできず民間企業への就職を考えたが、指導教授の勧めもあって結局博士課程までお世話になった。大学院5 年間では、悪臭規制の基礎となる人の感覚評価に関する研究を行った。分子レベルから計量心理学まで様々な学問的ベースを動員して評価を行ったが、人と社会とが複雑に絡み合う環境問題を理解するために、様々な異なる学問的見方を経験できたことはその後に大いに役立ったと思う。

博士課程を終えて、1991年に当時の厚生省国立公衆衛生院に入所し、その後に国立環境研究所に異動したが、一貫して資源循環や廃棄物問題の研究に従事してきた。廃棄物問題は、人びとの社会経済活動そのものがドライビングフォースであり、根本的解決には技術的対応だけでなく社会経済システムの変革まで切り込んでいかなければならない。まさに学際的なアプローチが必要な複合的かつ総合的な領域である。

東日本大震災以降は、膨大な災害がれきや放射能汚染廃棄物の問題に正面から向き合ってきた。特に放射能問題は、チェルノブイリの原発事故による汚染問題とは様相が異なり、人口が密集した地域で、かつ民主化され高度に情報化された社会の中で起こった問題として、私たち社会の対処の在り方自体が問われているように思う。弊所は、主に汚染廃棄物等の適正処理について、環境省所管の研究機関として政策決定に資する科学的知見を提供し、一方で行政の政策を検証していく役割があった。立場上、御用学者としてマスコミや地域住民に叩かれることも経験した。環境リスクの管理に係る意思決定は人びとの認知に大きく影響され、リスク認知自体もステークホルダー間の情報の偏りに左右される。技術論だけでは太刀打ちできない難しい問題である。

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災害がれきの放射線計測(福島県、2011年6月)

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災害がれきの山の発火可能性調査(岩手県、2011年夏)

この5年半ほどは、これまで生きてきた中では大変厳しい時期であった。一方で、社会に少なからず貢献でき、自分が社会に活かされていることを実感した時間でもあった。災害非常時という社会の不連続面において、組織の先導役の立場で、合目的に学際分野を纏める衛生工学のジェネラリストとしての感覚が役立ったように思う。もちろん、スペシャリストである周りの仲間の支えもあった。

振り返ってみると、流れに任せて生きてきたと思っていたが、衛生工学という入口から入り、社会に役立ちたいという気持ちをもって、目的のために常にジェネラリストとしての生き方をしてきた点は一貫しているように思う。専門性がないという見方をされることもあるが、特に災害のような非常時には、ジェネラリストとしてのマネジメント能力が必要になる。原発事故による放射能汚染問題の解決には、まだまだ長い道のりが続く。今後も自分に与えられたジェネラリストの役割を果たしていきたい。

(国立研究開発法人国立環境研究所資源循環・廃棄物研究センター長)