のり巻きの詩(うた)

赤木 和夫

赤木先生写真小生が通っていた小学校は、山と田んぼに囲まれた田舎の学校であった。生徒数は全学年を合わせても百名に満たなかったため、小生が卒業した数年後に廃校となり、隣村の学校に合併されてしまった。その小学校の校庭の片隅に幼稚園が併設されていた。ある時、数人のグループが二手に分かれ、言い合いを始め、運動場の砂や小石を投げ合っていた。その内、周りに小石がなくなり、ある園児が金網の塀の重しに使われていた大人の拳ほどの石を見つけて、それを投げつけてきた。小生はどちらのグループにいたのか、あるいは止めようとして中に割り込もうとしたのか忘れてしまったが、その石がなんと小生の側頭部を直撃した。転倒することも血が出ることもなかったが、「ボコッ」という音とあまりの痛さでその場にうずくまってしまった。思わぬ出来事でみな凍りついてしまった。ほどなくして、幼稚園の先生が飛び出してきて、園児らに声をかけながら状況を把握しようとしていた。しかし、小生も園児らもどういう訳か何も言おうとせず、結局、全員、教室に戻されこってりと灸をすえられた。石を投げた子はK君といい、喧嘩も強く周りから少し怖がられていた。そのため、他の園児らは事の詳細を先生に話すことを躊躇したようであった。小生は、それまで同君を怖いと思ったことはなかったが、その時は相手を責める気持ちはなかった。むしろ、どうしてあんな大きな石をよけられなかったのか、自分の反射神経のなさが不甲斐なく腹立たしかった。夜になると、石が当たったところがヅキヅキと痛みだし、大きなたんこぶができてしまった。家の者には、「こぶとり爺さんにこぶをとってもらうしかないな」と笑われながらも慰められた。触るだけで痛みがぶり返し、それから十日あまり帽子をかぶらず幼稚園に通うことになった。毎日一粒だけもらう肝油ドロップが痛みに立ち向かう勇気を与えてくれたように思う。  

時は流れて、園児は皆小学4年生になっていた。秋の遠足で、瀬戸内海が一望できる電波塔のある山に行った。昼になって山の斜面に腰を下ろし持参してきた弁当を広げて食べ始めた。当時、遠足の弁当といえば、それはのり巻き(関西では太巻きといわれている)に決まっていた。各家庭で母親が早朝から釜戸でご飯を炊いて酢飯にし、卵焼きや干瓢(かんぴょう)、椎茸を海苔で巻き、適当な厚さに輪切りして、経木(きょうぎ)の折箱に詰め、子供に持たせたものである。子供にとって、青空の下、皆でのり巻きをほおばるのはこの上なく楽しいのに違いないが、同時に他人ののり巻きがどのような味がするのか、食べてみたいと思っても不思議ではない。小生ものり巻きを一切れずつ互いに交換してはワイワイ言いながら食べ比べていた。親もそういった子供らの食べ方は十分承知していたであろう、子供に不憫な思いはさせたくないと、農繁期の忙しい時期であっても、普段以上の食材を準備して、心を込めて作っていたであろう。交換したのり巻きは各自の家の味とは違うそれぞれの美味しさがあったように思う。残り数切れになったところで、少し離れた場所に一人で座っていたK君のそばに行き、のり巻きを交換しようと言った。たんこぶの一件からすでに4年以上が経っていた。子供にとって4年前は大昔である。小生も同君もそのことはすっかり忘れていて、他の生徒と同じように接していた。しかし、K君はのり巻きの交換を頑なに断った。どうして断るのかわからず、少し強引ではあったが、まず小生ののり巻きをひとつ相手の折箱に入れた。そして、「じゃ、ひとつもらうね」といってK君ののり巻きをもらった。少し憤然とした顔をしたので、このまま立ち去るのも悪いと思い、二人並んで海を見ながら食べることにした。K君は小生ののり巻きをほおばりながら美味しい美味しいといって食べてくれた。小生もK君ののり巻きを同時に口に入れたが、お世辞にも美味しいとはいえなかった。途中で箸を止めるのも悪いと思い、噛まずに水筒のお茶と一緒に一気に飲み込んだ。気がつけば、自分のり巻きはまだひとつも食べておらず、最後に一切れだけ残っていたのり巻きを急いで食べた。具に桜でんぶの入ったのり巻きは見た目も華やかで、甘く美味しかった。その時、不意に、K君には申し訳ないことをしたと思った。K君ののり巻きは、普段使われている黒色の海苔とは違い、赤紫の海苔が使われていた。彼は、そのことを気にしていたのかもしれない。だから、敢えてのり巻きの交換もしようとはしなかったのであろう。しかし、そこへ小生が近づいてきて、あれよあれよと思う間にのり巻きの交換をさせられたため、困惑し立腹したのであろう。遊び半分でしたことが図らずも彼を傷つけることになってしまったと思った。帰りのバスの中でも、自責の念が離れなかった。 

あの遠足から1年半以上が経ち、明日から夏休みという日だった。竹ぼうきで校庭を掃除しながら、夏休みの計画などを皆で話していた。突然、K君が小生に(こい)を釣りに行こうと言ってきた。村には灌漑用のため池が沢山あり、子供らは暇さえあれば(ふな)釣りに興じていた。しかし、鯉については釣った経験もなければ、鯉そのものがどこの池にいるのかも知らなかった。唯一、村の山奥に大正時代に作られた大きな池があり、そこには鯉がいると大人から聞いたことがあった。K君にその池のことかと聞くと違うと言う。もし、一緒に行くならその場所を教えてやると言った。鯉も見たいし、未知の池の場所も知りたかったので、二つ返事でオーケーした。翌朝、小学校の校庭で落ち合い、池がある山の方へ歩いていった。歩きながら、向かっていく先がK君の家の方向と同じであることに気がついた。事実、1時間程歩いて到着したのは彼の家だった。小生はそれまでK君の家に行ったことも詳しい場所も知らなかった。彼は毎日、山の麓から歩いて小学校まで通い、また同じ道を歩いて帰っていた。その朝も、家を早く出て、わざわざ小学校まで小生を迎えに来てくれていた。K君の家で、見たこともない鯉用の太い釣針を貸してもらい、釣り糸に付け替えた。これから急峻な山を登るため、釣竿は邪魔になるということで置いていくことにした。家の裏は山林となっていて、そこから雑木林の中を登り始めた。けもの道をくねくね登るため、どの方角に進んでいるのかもわからないまま、ようやく1時間程かかって、緑色に濁った池に出た。しかし、その池は目的の池ではなかった。人も通わぬ山奥に本当に池があるのかと不安に思いながら、夏の日差しが照りつける山道を登り続けた。これ以上登ると、山頂に出るのではないかと思われた時、その池はあった。澄み切った群青色の水面が広がる神秘的な池だった。池の周りは雑木と草が生い茂り、釣りができるような足場はなかった。池にせり出すように松の木が斜めに伸びていて、その日陰になっている水面を見ると、数匹の大きな鯉がゆっくりと泳いでいた。大急ぎで近くの竹を切り、竹竿の先に釣り糸を結び付け、草むらの中から釣糸を投げ入れた。しばらくすると、池の反対側から人の声が聞こえてきた。凝視すると、我々と同じ小学生であった。しかし、彼らがかぶっていた白地の運動帽には見たことない校章がついていた。彼らはよその村の小学生だった。後でわかったことだが、この池は学区が全く異なる隣市に位置しており、我々こそが越境してきたよそ者であった。初めて見る「他国」の人間に思わず緊張感が走ったが、互いに声をかけることもなく釣りを続けた。昼前から釣り始めて、4時間以上粘ったが釣果はゼロであった。鯉釣りについては初心者であり、しかも「寄せエサ」も使わず鯉が釣れるほど甘くはなかった。仕方なく、釣りは止めて帰りかけたが、何も食べずにいたのでお腹が空き過ぎて、下り道とはいえ一歩も歩けないほど疲れてしまった。幸い、K君の機転で、山菜のイタドリ(別名でスカンポともいう)を見つけてもらい皮をむいて食べた。その後も、木苺(きいちご)や山葡萄を摘んでは二人で分け合いながら、やっとK君の家まで辿り着いた。家の前庭には、声が響くほど深く掘った井戸があった。滑車付きのつるべで水を汲み上げ、桶ごと一気に飲み、残りは頭からかぶった。疲れを吹っ飛ばすほど冷たく美味しい水だった。K君は鯉が釣れなかったことを大変悔しがり、申し訳なそうにしていた。小生は釣果がなくても何とも思っていなかった。近場の池で鮒釣りをしても一匹も釣れないことは多々あったし、それ以上にいろんな体験を味わったことで満ち足りていた。K君は鯉の代わりと言って、畑に植えてあったグイビとユスラ(梅桃)をポケット一杯になるまで摘んで持たせてくれた。一息ついたところで、使うこともなかった釣竿を肩にかけ、渋いグイビと甘いユスラを交互に口にほおばりながら、朝来た道を今度はひとりで帰っていった。ひぐらしの鳴く山道に、微かに涼風が吹いて側頭部をかすめていったように思えた。 

K君とはあの日、ほぼ丸一日行動を共にしたが、のり巻きの話はでなかった。もちろん、どちらかが話題にすれば、色々と当時の思いを語り合えたかもしれないが、そうはならなかった。お互い、心の一番深いところにしまっており、今はもう敢えて語る必要もないと考えたのかもしれない。相手の気持ちを察し、黙して語らぬことも、仲良くなれる(すべ)と感じ取っていたのかもしれない。一方で、大人になっても寄せては返す波のように、のり巻きのことが鮮明に蘇ってきた。振り返ると、自身が時として無意識の内に高慢な振る舞いや不遜な物言いをした時、のり巻きの思い出が、自戒の契機になってくれたように思う。もし、あの経験がなければ、教職に就く資質さえ持ち得なかったかもしれない。幸いにして、多くの人々に支えられながら、大過なく定年退職を迎えることができた。何物にも代え難い慶びであり、心から感謝している。これからの半生、のり巻きの(うた)を吟じながら、人に優しくあらんことを常として生きていきたいと願っている。

(名誉教授 元高分子化学専攻)