転位のこと

酒井 明

酒井先生写真ある材料研究者がDislocation and Fractureという題名の本を購入したところ脱臼と骨折の本であった、というのはよく知られたジョークであるが、今回の話は脱臼ではないdislocation―転位のことである。

指導教官が転位研究の第一人者である鈴木秀次先生であったことから、院生時代には転位は身の周りにあふれていた。GL理論と言えば超電導のGinzburg-Landau理論ではなく、転位の音波吸収に関するGranato-Lücke理論のことであった。聞くところによると、日本における転位研究の大きなエポックは1953年に京都大学で開催された国際理論物理学会だそうである。この会議は欧米から気鋭の研究者が多数参加して日本の戦後の科学研究に多大の刺激を与えたことでよく知られているが、Wikipediaに示されている会議の日程表を見ると、「場の理論」・「分子、金属」と並んで「転位」に一日が充てられている。これは湯川先生と共同で会議の会長を務め、当時転位の研究も行っていたN. F. Mottの意向が働いた結果であろう。この会議により日本の転位研究者は大いに勇気づけられ、鈴木先生はMottに敬意を表して「Mott先生」と「先生」をつけることにしたそうである。しかし私が院生であった頃は会議から20年以上経過しており、転位は学生にも人気のないテーマとなっていた。私の友人によれば、転位論は「Planck定数が出てこない(従って面白くない)世界」だそうである。研究室の多くの学生も内心ではそう思ってはいたものの、研究室に入ったからには少しは転位を勉強しなければ、という自覚はあって、輪読ではHirth-Lotheの転位論の大著を原語で読むという暴挙も行った。しかし本の中身はさして面白くなく、特に部分転位の交差すべりやThompson四面体の個所には辟易して、早くその章が終わることをひたすら願っていた。

その頃に話題に上っていたのがKosterlitz-Thouless(KT)理論である。当時鈴木先生は液体の転位モデルに力を入れておられたことから、当然KT理論には興味を持っておられたが、むしろ同じ理論をFeynmanが着想していた[1]ことに強く感銘を受けられたようで、「あのFeynmanも考えていたことだが...」という前置きは良く耳にしたものである。結晶の長距離秩序を壊すためには点欠陥ではなく転位の導入が不可欠である、という主張が液体の転位モデルの基本であるが、転位双極子の自発的な発生と解離によって2次元結晶の融解を説明するKT理論は非常に見事にその主張と合致していた。また少し後の頃には転位によるAharanov-Bohm効果という話もあり、これは例えば刃状転位では転位の上側に余分な原子面が挿入されるので、転位の上と下を行く伝導電子は位相がずれて干渉する、というものである。この現象については、当時広島大学におられた川村清先生が理論的取り扱いを行っておられた(寡聞にして1本の転位による伝導電子の干渉効果が実験的に検出されたという話は聞いたことがない。現在では走査トンネル顕微鏡(STM)で観察可能であるかも知れないが)。

このような研究を見聞することにより、私も転位に対して少し改心するようになっていったが、より強く転位を意識し始めたのは表面科学の分野に移ってからである。Auの(111)清浄表面は帯状の積層欠陥が周期的に並んだ独特の構造を示しており、STMで表面を観察すると、積層欠陥の端が明るい線としてイメージされる。材料の教科書には必ず書かれていることであるが、AuのようなFCC結晶の(111)面の積層欠陥の端はShockley部分転位である。実際、Au(111)表面の積層欠陥は折れ曲がったり分離したりと複雑な形状を呈することがあるが、この際に積層欠陥の端は転位反応の式に正確に合致した振る舞いを示している。また、ある国際会議で目にしたFCC金属の表面合金の原子像では、 (111)面に大きな正三角形の空き地ができていて、その中に原子3個が小さな正三角形として納まっていた。これは鈴木先生の転位論の教科書に図示されている積層欠陥四面体の底面の原子配置そのままである。このように主舞台である材料強度の分野とは縁遠い表面科学の世界で転位が顔を見せていることは、私にとって新鮮な驚きであり、転位というものの物理的な普遍性と奥深さとを痛感することとなった。

こうなると転位論研究室のOBとしては転位をもっと広く認知してもらいたいと思うのであるが、残念なことに材料以外の分野では、転位の認知度はまだまだ低迷気味である。先述のAu(111)面のShockley部分転位のような明白な転位すらsolitonなどと呼ばれている有様である。折からKT理論が2016年ノーベル物理学賞の受賞対象となった。これで転位も少しは有名になるかと期待したのであるが、情勢は思わしくない。受賞を機に書かれたKT理論に関する解説記事を見ると、磁性体のXYモデルの渦構造や薄膜超流動・超電導については説明があるものの、転位は完全に「スルー」されている。ノーベル財団による背景説明にはdislocationという単語すら見当たらない。Kosterlitz-Thouless は転位論が彼らの理論の基本になっていることを明確に述べており、彼らの論文にはNabarroや(de Gennesが “the dislocation bible” と呼んだ)Friedelの転位論の教科書が引用されているにもかかわらず、である。それでも以前よりはトポロジカル欠陥としての転位に注目する人も増えることであろうし、いつかは1953年の会議のように、転位が場の理論と肩を並べて議論される日も来るであろう。それを待ち望んでいる。 

[1] Feynmanの同僚であったD. L. Goodsteinが折々にこのことを書いている(例えばPhysics Today vol. 44, p.70 (1989).)。鈴木先生が知ったのは1973年にGoodsteinが書いたHe吸着膜に関する報文を通してである。

(名誉教授 元材料工学専攻)