「京都に生まれ、京大に育てられた人生」

中條 善樹

中条先生写真 小学生の将来なりたい職業の1 位に久し振りに「科学者・博士」が返り咲いたという。私自身が、化学という道を選び、研究者・教育者として勤めて来て、いま区切りとして京都大学を定年退職する時がやってきた。京都に深い縁を頂いた、その幸運を今噛みしめている。この機会に、これまでの私の進路選びを振り返り、お世話になった京大の工学広報からの執筆依頼を受けて、雑感を記したいと思う。

「京都生まれの京都育ち」
 私は京都で生まれ、途中で名古屋に住んだ5 年半を除くと、60 年以上の長きにわたって京都に住んでいることになる。生まれたのは京都の太秦、今の映画村の近くである。当時はまだ映画村はなく、大映、東映、松竹などの個別の撮影所が集まっていた。小学生の頃は、放課後に自転車で撮影所に行き、その辺に捨ててある使い古しの刀(もちろん模擬刀)を拾って持ち帰り、チャンバラごっこに使っていたのを覚えている。幼稚園の時の遠足で大覚寺の前の大沢池に行ったり、小学校の時は北野天満宮での書初めに毎年参加していた。中学では、近くの妙心寺で座禅を組ましてもらい、広隆寺の弥勒菩薩像を何回も見に行ったりもしていた。自分の家の近くにこのような日本を代表する寺社仏閣があり、歴史と文化が日常に溶け込んでいる、この素晴らしい京都という町を特別なものとは思いもせず、ごく当たり前の環境と感じていた。京大に勤めてからは、外国からの研究者を案内して二条城や金閣寺、清水寺などの有名どころを訪問するのを除けば、せっかくの宝の山を回る時間も余裕もない化学漬けの生活で、今日に至っている。

「進路を決める」
 高校に進学した時は、私は研究者になることは既に決めていたが、将来の進路(専門)を、元々非常に興味があった「歴史」にするか、大好きな「化学」にするかで迷っていた。化学を仕事として歴史を趣味にすることはイメージできたが、その逆は難しいなと思った。その結果、理系のクラスを選択した。高校3年の文化祭ではトウモロコシを屋台で焼くことになり、五条通(今のリサーチパークの横)にある京都市の青果卸売市場にトウモロコシの買い付けのために毎朝6 時頃から通った。10 月に入ってからという季節外れのために、毎日毎日空振りの日が続いたが、一週間も経つと市場のベテランのかなり強面のおじさんに顔を覚えてもらい、やっとトウモロコシが入荷した時に優先的に譲ってもらうことができた。おまけに、そのおじさんの軽トラで高校まで一緒にトウモロコシを運んでもらった。その時の経験から、ネバーギブアップ、最後まで諦めないことが大切だというのを身を持って体験した。京都の高校で、自分の進む道と信条を手に入れることができた。

「博士になる」
 志望通り京都大学工学部の合成化学科に入学した。安保闘争に象徴される学生運動はかなり収束していたが、学部の1、2 回生(いわゆる教養部)の時代は沖縄返還の反対運動が盛んで、結果として2年間の前後期合わせて合計4 回の定期試験は全て中止となった。当然講義も非常に休講が多かった。その間は悪友と旅行や麻雀三昧の日々を過ごした。学生運動が収まった3 回生からは、有機化学、物理化学、無機化学、分析化学を中心に、講義・演習・学生実験が集中的に行われた。化学を真剣に学ぶと、もともと好きで選んだ学問ということもあり、化学、特に有機化学がとても面白くなり、博士課程に進学することを決めた。大学院ではかなり自由に研究をさせてもらったが、そのせいか益々研究にのめり込むようになった。学位取得後は幸いにも学振の奨励研究員(いまの特別研究員)に採用して頂き、その後に名古屋大学工学部の山下雄也先生の研究室に助手として採用してもらえることになった。ただし、その専門は学生時代とは随分異なった研究分野となった。

「大学の教員になる」
 私の学位論文のテーマは和訳すると「遷移金属錯体による二酸化炭素の固定およびそれを利用した有機合成反応」であった。要するに有機合成・有機金属化学が専門であった。それがどういうわけか、高分子化学を専門とする研究室に助手としてお誘いがかかったのだ。当時の私は、高分子を扱ったこともなく、名古屋大学への赴任の時は高分子の分子量測定法すらろくに知らなかった。そんな人間が、高分子合成の研究室で学生を指導する立場になってしまった。しかも1 月1 日付けということで、要するに年度途中である。すぐに3 人の学生を任されたが、M1 はともかく、4 回生は卒論、M2 は修論が目前に迫っていた。赴任直前の年末年始は正月気分もなく、高分子の教科書を読み漁った。今となっては懐かしい思い出であるが、まさに付け焼刃の見本である。

 高分子は全くの素人の私が、少しはとっつきやすいと感じて先ず始めたのが、有機金属化学の延長で理解できる「無機元素を主鎖に有するポリシロキサンの合成」であり、これがその後、「有機-無機ハイブリッド材料」となり、その延長として最近の「元素ブロック高分子材料」へとつながっている。研究分野は外からは「有機金属化学」から「高分子化学」へと変わったように見えるが、私自身は常に「両方が自分の専門」と意識している。

「留学生専門教育教官」
 名古屋大学では米国への一年間の留学(招聘研究員)もさせてもらい、高分子合成に関しても面白い研究成果を出すことができた。楽しく自由に研究をさせて頂いたと感謝している。しばらくして京都大学の私の指導教授でもある三枝武夫先生から、先生の研究室に講師として帰って来ないかという有難いお誘いを頂いた。京大に戻ってから分かったことだが、そのポストは留学生専門教育教官講師という特別の職であり、当時は工学部全体で2 名で担当していたが、もう一人は留学中であり、結局工学部全体の留学生の来日や住宅の世話、奨学金の面接はもちろん、海外からの来客のお世話も含めて国際交流一般の仕事を一人で担当することになってしまった。さらに、最も大きな仕事は、京大の工学部とマレーシア、シンガポール国との学振による総合工学学術交流のプログラムリーダーを務めることであり、結局マレーシアには8 年の間に合計12 回訪問した。
ただ、この仕事をやらせて頂いたお蔭で、工学部の化学系以外の土木や機械、電気系などの先生方と親しくなり、工学の他の学問分野を勉強するいい機会を頂いた。現地では、マレーシアの5 大学、シンガポールの2 大学を毎回訪問し、交流の進め方について英語で議論(喧嘩?)するという得難い経験もさせて頂いた。また、帯同された事務官の方々との楽しい珍道中も、今では良い思い出になっている。一方で、研究室での研究や講義などもきちんとやりたいと思い、結局この時の8 年間は元旦を除いて一年364 日大学に出て仕事をすることになり、それを許してくれた家族には感謝の気持ちでいっぱいである。

「研究室を任せられる」
 その後に助教授に昇進、さらに幸運にも教授にして頂き、恩師三枝先生の研究室を継がせて頂くことになった。教授として研究室を自分で担任することになった時、研究室のモットーとして考えたのが別掲の「院生の耳に念仏」の七カ条である。これは、私自身の研究哲学を箇条書きにまとめたものだが、実は毎年改めて見直すと、自分にとっても新しい発見があり、各項目がそれぞれ違った意味を持ってくる。初心に戻ることも含めて、毎年の年末年始に新鮮な気持ちで自分なりに眺め直している。研究室を任せられて23 年間、百人以上の学生とともに楽しく研究できた。中でも博士課程に進学した学生は52 名にのぼり、そのうち42 名の卒業生が現在アカデミックなポジションで活躍している。学会などで、彼ら自身の研究室の学生(いわゆる孫弟子?)とともにいろいろと議論する機会もあり、研究者・教育者としての自分は本当に幸せだと感じる。

念仏

「桂キャンパスへの引っ越し」
 工学研究科では2003 年に桂キャンパスへの引っ越しがあった。めぐり合わせでちょうど化学系のブロック長となってしまい、結果として引っ越しの担当委員長にさせられてしまった。建物の設計から各研究室の配置、地元住民や消防署との折衝、そして全体の引っ越し計画など、毎日が目まぐるしく過ぎて行った。化学系は電気系とともに先発部隊で引っ越したが、その中でも私の研究室は、世話人の立場もあり初日に引っ越した。その日の夜は、学生とともに懐中電灯を手に、2 研究室のみしかないAクラスターの建物内を冒険したことを思い出す。事務室や生協等は1 年後まで桂キャンパスになかったので、当初は食事をする場所もなく、弁当を温める電子レンジが研究室に必須となり、その結果、マイクロウェーブを使った研究にも取り組むというおまけまでもらうことができた。化学系の引っ越しも一段落して少しほっとした時に、ヘルペスで入院するはめになった。自分の思っていた以上に、身体へのストレスになっていたのかも知れない。

「未来を化学で元気にする」
 学生時代の有機合成を専門としていた私は「高分子は混ざりもの」とネガティブに考えていたが、教員になってからはそれをポジティブに解釈しなければならなくなった。つまり「その混ざり具合を自分で制御することができ、その結果として様々な特性を材料に付与できるのが高分子である。だから高分子は面白い」と。そして、本当に面白くてたまらない私の専門になった。この混ざりものの概念をさらに進めて複雑にしたのが、私の主な研究対象となった有機-無機ハイブリッド材料である。すなわち、ハイブリッド材料は「組み合わせの妙」を研究者の意思で決められる「愛すべき研究対象」なのである。このハイブリッドの概念を更に進めて、元素レベルで有機と無機を組み合わせたものが最近興味を持って研究してきた元素ブロック材料である。これからは有機でもなく無機でもなく(あるいは有機でもあり無機でもあり)、また合成のみとか物性のみとかの研究に固執せず、それらを包含して発展させた新しい概念や学術分野、それを基にした新規の材料が強く期待される。これからの若い世代の研究者・技術者は、固定観念(概念)を超えた新しい学問分野、新しい機能を持つ材料を創出することを、是非目指して欲しい。そして、化学の力で未来が元気いっぱいになって欲しいと強く願っている。

「最後に」中條先生イラスト
 いろいろな出会いと幸運に恵まれ、京大に育てて頂きました。悔いのない研究生活を終えられることに本当に感謝しております。ありがとうございました。

(名誉教授 元高分子化学専攻)