科学技術と倫理観

山岸 常人

山岸先生 科学技術の進歩のおかげで、日々便利に過ごすことができるのは有り難いことである。しかし本当にそれで社会全体が、あるいは一人一人の人間が、真に幸せで豊かな生活を享受できているのだろうか。未来はバラ色なのだろうか。
 自動車は人間の移動の自由を飛躍的に増大させた。しかし同時にやむを得ないことかもしれないが、事故によって多くの人の命を奪うようになった。そこで最近は自動車という機械が自ら判断して事故をなくす技術が開発されつつある。これで問題はなくなるのか。機械の判断が絶対正しいとは限らないうえに、そのことに頼った結果、人間の判断力は必ずや劣化してゆくはずだ。判断できない人間が、機械の誤った判断や不具合のために事故を起こすことは、結局なくならないだろう。自動車を凶器として使う人間だっているのだし…。
 仮想通貨がもてはやされていて、同時にその仕組みに潜む重大な事件も発生している。極めて便利な上に、一部の人は経済的に大変潤っているそうで、うらやましい限りである。しかし仮想通貨の詐取は止められないどころか、詐取された通貨の動きは無関係な人によって監視されうる状況のようだ。物品や情報の管理は情報技術の進歩によって効率的に行えるようになったようでいて、全く正反対の事態が起こっている。
 卑近な例でいえば、技術の進歩の結果、日本国民の多くが電車の中や路上でひたすらスマートフォンをながめていて、それも大半がゲームに打ち興じているという、恐ろしい光景を生んでいる。周辺への目配り、気配りなどまるでない。人間の知的な向上はそこからもたらされるのだろうか。
 こんな事例は枚挙にいとまがない。こういう批判をすると、科学技術に携わる人びとは、「我々はよりよい技術の創出を行っているのであって、それをどう使うかは使う側の人間の問題だ」と言う。善意で技術開発に取り組んでいる人は多いであろうことは否定しないが、このような言い逃れは責任放棄に等しい。
 技術が精緻になればなるほど、技術開発に伴う正の側面と負の側面の両面を無視することは許されない。負の側面を勘案しながら、その技術開発やその成果の利用を進めるべきか否かについて、その技術をもっともよく知っている当事者が熟慮すべきである。危険が大きいなら封印すべき技術もあるはずなのだ。
 ただしこの判断はとてつもなく難しい。包丁だって人を傷つけうる。それなら包丁は作るべきではない、とは簡単には言えない。包丁を放棄したら我々の生活は先史時代に後戻りする。しかし、たとえば原子力発電を放棄するという判断はあり得るだろう。実際そのように判断した賢明な国家もある。
 極めて難しい課題である。重要なことはここで述べてきたようなことに、あなたは日々、思いをいたすことができているか、という点である。倫理観を研ぎ澄ますべきなのだ。教養を深めるべきだといってもよい。
 私は縁あって、十年以上桂キャンパスに通う生活を送らせていただいた。阪急桂駅で毎朝見る光景は、点字ブロックの上に立ってバスを待つ行列である。そのバスに乗る人はほとんどが京都大学工学研究科の教職員や若き前途有望な学生の皆さんである。このような基本的な倫理観の欠如した人間が産み出す新技術は、人間に対して何をもたらすのだろうか。そう言う私自身だって、そのような倫理観を身につけて行動しているのか? 退職した今、改めて自省すべき事だと思っている。

(名誉教授 元建築学専攻)