複雑なものは複雑なまま考える

藤森 崇

藤森氏画像2000年4月より学部・修士・博士の9年間を京都大学で学び、2010年3月に都市環境工学専攻において博士(工学)の学位を授与されました。その後、(独)国立環境研究所における2年間のつくば生活を経て、2012年4月より同専攻の助教として着任しました。2013年4月からは地球環境学堂との兼任になり、桂(工学研究科)と吉田(学堂および工学部)を行き来する機会が増えました。

本原稿を執筆している7月中旬は、祇園祭の最中です。街中の華々しい賑わいと、研究室のある桂キャンパスの静けさが、同じ京都市とは思えないほど対照的な印象を受けます。ただ、山鉾巡行に向かって凝縮されたエネルギーを、桂の高台でひしと感じています。京都大学の教員であると同時に、生活者として市内を徒歩や自転車で巡る際に、不思議と考えが纏まることや、気持ちの整理がつく瞬間があります。文化という抽象的な概念は、筆舌に尽くし難いのですが、この文化こそ、京都に暮らし、学問することに対して、目に見えない大きな効用を齎していると直感しています。本稿は限られた字数の中で自身の研究を紹介する機会ですが、前提としてその研究をする「場」の重要性を感じずにはいられません。京都大学の場合は、まさしく京都という場が、教育・研究と分かち難く密接に連関しているのでしょう。

京都の文化に包まれて、個人的に培ったものの見方として、「複雑なものは複雑なまま考える」というものがあります。具体的にどこからこの言葉が来たかは不明です。ただ、京都で読んだ書物、聞いた話、見た景色、あるときの観想、そういった諸々が重奏的に影響していることは確かです。これは筆者の考え方の癖のようなものになって、研究にも展開しています。研究対象を「環境」とし、様々な試料を実験・分析している者にとって、複雑さは不可避の問題です。例えば、都市ごみ焼却で発生する灰中には、目の眩むような数の元素が含まれています。しかも、その元素「群」がごみ燃焼によって、個々の化学状態を変化させ、時にダイオキシン類といった有害物質を意図せず(非意図的)に生成してしまうのです。西欧諸国の研究者達は、伝統的にこの問題に取り組んできましたが、その際、この多様な元素群から一部の組成を抜き出して、ダイオキシン類生成の影響因子を探索するアプローチを採ってきました。彼らは、複雑な対象を簡単な問題に「分割」して考えるのです。

同じことを、同じようにやっても対等に争える訳がありません。対象試料が如何に複雑な組成であっても、可能な限り同じ組成を再現し、複数の因子を、その相互作用も含めて包括的に考える視点を持つことで、彼らの知り得なかった知見に辿り着くことが出来ます。「分析」という言葉は一般に使われますが、この言葉自身に「分割」の概念が含まれています。そうではなく、分けずにそのまま考えることで、見えてくる世界があるのだと強く実感しています。筆者が学生時代、何かの特別講義で元総長の長尾真先生が、似たようなことを仰っていたことが思い起こされます。インド発祥の「群盲象を評す」の寓話を引き合いに出し、「個々の象の部位を触っただけでは象のことは分からない、象の全てを感得しないと駄目だ。」そのような内容を語られました。そして、「日本的な発想は、全体を摑まえるのが上手い、象を理解できる素地がある。」と。象が科学的真理に置き換わっても同じでしょう。

ここ京都の地にあって、文化と研究の相互作用に思いを馳せてみました。象の一部分だけを撫でずに、望むらくは複数の要素全てを重ね合せた先に見える本質を見てみたいものです。

(助教 都市環境工学専攻)