定年退職雑感

小林 四郎

学教員として一番有難いのは、自分の好きな仕事ができる自由度の大きいことである。私はその利点を享受させて頂いてこの度定年退職を迎えた。これまでを振り返るとやはり学生時代のことが多く甦る。

合成化学科第一期生

私が本学に入学したのは1960年である。当時池田内閣の所得倍増政策を受け、理工系ブームの真っ只中であった。これからは絶対に理工系だ、との兄の勧めと自身化学が好きであったため、新設された合成化学科を受験し第一期生として入学した。化学系第5番目の学科として工業化学科を母体に誕生したためであろう、三回生になるまで工業化学科(合成化学科)と( )付きで記されていた。全国の大学で理工系学科の新・増設が相次ぎ、本工学部でも同年もう一つ精密工学科が新設された。当時のブームは相当なもので、高校のクラスメートの中には本学医学部を合格したのに入学せず、一浪して工学部に入学し直した者がいる。

1回生は宇治分校で学んだ。宇治キャンパスは軍部が使っていた跡地で、半分を京大が他の半分を自衛隊が使っており、金網で仕切られていた。入学早々から安保闘争の火中にあって、デモ隊の国会乱入など6月に最高潮に達した。学生のキャンパス内での反安保デモを横目に、金網越しに自衛隊員が緊張して訓練を行っていた光景が鮮明に残っている。多くの講義室が弾薬倉庫を改装してつくられた貧相なもので、広いキャンパスの松林の中に点在していた。我々の学年が宇治分校最後の1回生で、次年度から教養1・2回生全員が吉田分校で学ぶことになっていた。従って宇治分校については全く金を使わないのが大学の方針であると聞かされたが、正にその通りで講義室は隙間風が遠慮なく入ってきて、冬の第一時限石炭ストーブが暖まるまで寒くて震えていた経験がある。

学部3回生になり、歴史的な赤レンガの建物の横に、後に工化総合館として完成する建屋の一部が出来上がった。新しい講義室、実験室で恵まれた環境のもと、学部では自分の納得できる学生生活を送ることができた。4回生で講座配属となり、実験に面白さを感ずるようになり、研究を続けたく、修士、さらに博士課程に進んだ。1960年代日本は右肩上りの驚異的な経済成長を維持していた。バラ色の将来を信じかつ、何かをしたいと思いつつ大学院で研究に励んだ。

合成化学科一期生が中心になり学部卒業を控えてプリント誌「ごうせい」を創刊した(1964年2月)。当時工業化学科には「赤れんが」という伝統あるプリント誌があったのを真似たのである。最近それを見る機会があった。そこには学科創設当時の先生方の意気込みと期待がひしひしと感じられる。一部を抜粋する。「・・・ここにめでたく「合成化学」の教室(教育と研究の場)が出来上ったのである。この教室が今後健全な発展をとげ、その成果が広く世界から注目されるようになるかどうかはいろいろな因子に左右されると考えられるが・・・。・・・本教室の全構成メンバーの努力によってこそ始めて目的が達せられるものである。・・・人間は年をとって段々と新進の者にその席をゆずらなければならない・・・。誰が判断してもこれならと言うスタッフの後継者が学生諸君の中から現れることを切望して止まない・・・。」(小田良平教授)。「・・・合成化学教室創設がもとになって工化総合館を造ろうということになったが、はじめは議論百出しその実現を危ぶものが多かった。しかしはじめの予想とは逆に大変立派なものができたわけで、これは我々の永遠の喜びと言わねばならない。しかし京大合成化学科の真の真の完成は、この教室からどれだけ立派な仕事が出てどれだけ優秀な卒業生が生れるかにかかっているので、実はこれからである。・・・」(古川淳二教授)。「・・・、専門家にも二つの種類がある。その一つは他から問題を与えられて、それを解いていく人である。・・・その二は自ら問題を発見し、その解決を工夫する人である。つまり独創性のある人である。・・・合成化学科卒業生のなかから第二の種類の専門家がなるだけ多く出ることを期待したい。」(吉田善一教授)。学科発足後45年経ち、一期生が定年退職を迎えた今、当時の先生方はどのように感じられるだろうか。

講義

教養時代、美術、言語学、西洋史学、倫理など選択科目を積極的に受講した。高校時代と較べてさすが専門分野を極めている先生は違うという思いで非常に興味をもって聞いた。一気に大人の世界に入ったように感じた。元来歴史が好きであったので一応の知識を持っていたし、新しく多くを学んだが、後年ヨーロッパに行ってこのような知識が大いに役に立つとは思ってもみなかった。総合大学の有難さである。

学部時代、合成化学科の先生方から第一期生の我々は格別に熱のこもった教育を受けたと思う。先生方は大変張り切っておられ、目が輝いていた。これからは世界を相手に研究しなければならないという信念のもと当時世界の著名大学化学科のカリキュラムを取り寄せて検討の末、カリキュラムが組まれたと聞く。特に漸進な試みだったのは3回生で原著論文の購読会が企画されたことである。私には、たまたまテトラフルオロエチレンの重合によるテフロンの合成論文が当った。このことが四回生で高分子化学を研究する古川研究室配属のきっかけとなり、ひいては定年まで高分子合成研究を主な仕事とすることにつながった。

講義では学部、大学院を通じて基礎的重専門項を教わったわけであるが、教科書に書いてあるような事実の習得もさることながら、むしろ講義中脱線して研究の大発見にまつわるエピソードや先生方の私的なコメントが興味深く残っている。大事なことは「人真似をしない、独創的のある研究をすることである」とくり返し強調された。そして「興味のあるテーマを見つけなさい、見つからなかったら自分で創り出しなさい。」というような言葉も脳裏に焼きついている。

後に自分が学生に講義をする立場になって、講義の役割は事実を論じる重要性は勿論のこと、学生が化学に興味を抱く、感動を呼び起すように導くことがそれにも増して大事だと思うようになった。従って私の講義では余談に費やす時間が多い。将来を担う学生諸君に自分の想いをメッセージとして伝えたいからである。

博士研究員

1968年に始まった中国文化大革命に端を発し、世界的規模で学生運動が盛んになりキャンパスが荒れた。翌年本部キャンパスが防壁で囲われ要塞と化したことがあった。そのような学園騒動の中で博士課程を終えた。縁あって、当時は「カチオンのオラー」としてすでに著名であったOlah先生(ケースウェスタンリザーブ大学教授、オハイオ州クリーブランド市)のもとでポストドクとしてお世話になることになり、2年余滞在した。広大な国土をもち、1ドル360円の時代であったから、彼我の国力の差を痛感した。その豊かさに圧倒された。実験機器、設備、居室状況等格段の差があり、労少なくしてデータが得られ易い研究環境が整っていた。与えられたテーマをお互いに議論しつつ本当に一所懸命仕事した。自然、歴史、文化、宗教、人種の異なる諸国からのポストドクや院生と交わることができ、日本という国と自分自身をより深く見つめ直すようになった。

滞在中先生から、研究の進め方、研究に対する態度、哲学など多くのことを学んだ。とりわけ何度も聞いて印象深いのは“Enjoy your research work!”という言葉である。このエンジョイには単に楽しむより、もっと深い、よく味わいながら喜びをかみしめるという意味が含まれると思う。この言葉は以後何十年ずっと私の研究に対する姿勢と人生観にも影響している。そして私の研究室の学生諸君にも同様のことを言い続けてきた。なお先生(現南カルホルニヤ大学)は1994年ノーベル化学賞を受賞された。

虚学と実学

帰国して三枝研究室で助手として務めさせて頂いた。学生時代から工学部でありながら基礎研究の重要性をたたき込まれていたし、自分でもそう思っていた。研究テーマを考える時、先ず科学として独創性を第一の問題とし、役に立つかどうかは二の次にして研究を推行してきた。福井謙一先生も「役に立たない基礎研究はない」と基礎重視を強調しておられた。これは京大の伝統ある学風と思っていた。そして東北大学工学部応用化学科に教授として呼んで頂いて驚いた。工学部は実際工業生産にそして社会に役に立つ研究をするのが本来の姿であるという。赴任当初私の研究に対して、どのように役立つのか、理学部の研究とどう違うのか、再三聞かれたのである。京大工学部では当り前と思っていた研究は東北大工学部では虚学と写ったのであった。他大学に移って初めてこのようなことを気付かされた。これは良し悪しの問題ではなく工学部における研究の性格に対する考え方の相違に基づく。むしろ世間的には京大工化学系の方が特殊かも知れなかった。事実、東北大工化学系では工業生産に直結する製造手法、現に使用されているプロセスに代るものやその改良等すぐに役立つ言わば実学の研究テーマが多かった。科学論文よりも特許の方が高く評価された程であり、企業からも重宝されていた。そのような雰囲気の中で私は京大流を貫き、自由にやらせて頂いた。この点東北大学に大変感謝している。酵素を触媒に用いる研究を始めたのも赴任後間もなくことである。

研究の方向―科学と技術

材料化学専攻からお声がかかり本学に戻った。間もなくキャンパス移転問題が具体化し、桂キャンパスが誕生した。100年に一度といわれる大事業に遭遇し、新しい素晴しいオフィスと研究室を使う幸運に恵まれ、吉田から離れ定年前1年8カ月を桂で過ごした。今までの所、地理的な不便さもあり功罪相半ばするが、インフラ整備は着々と進んでいる。移転の完了は数年先になるようであるが、10年20年先に桂キャンパス移転は大成功であったと言われるよう、秀でた研究と教育がなされ桂が世界の一大研究拠点となることを信じている。

昨年4月大学は独法化されたが研究はどちらに向かうのだろうか。校費に当る運営費は次第に減少していくという。研究費を自前で外部から調達する必要性が益々高くなっていく。政府の科学技術政策として情報通信、ナノテクノロジー・材料、環境、ライフサイエンスが重点四分野として予算が優先配分されている。しかし、科学技術の技術の方が重視され、科学の視点が軽視された配分になっている気がする。すぐに役立ち、一見華やかでマスコミ受けするような研究ばかりが歓迎される傾向にはくみできない。科学と技術、虚学と実学の区別は難しいが、しばしば基礎研究と応用研究などと対比されて議論される。両面のバランスが重要なのは勿論であるが、桂キャンパスでの研究は流行に迎合することなく科学、基礎研究重視を堅持してただきたく思う。技術革新には科学の発展が不可欠だからである。いぶし銀のような基礎研究の遂行こそが本学の伝統であり使命である。独法化後分野によってはそのような基礎の仕事に研究費がつき難くなりつつあることを危惧するが、政府レベルでの研究費配分でそうならないよう願うとともに、本学としても地味であるが非常に重要な分野の研究に十分の配慮をお願いしたい。

名誉教授 元材料化学専攻)