研究教育雑感

吉川 恒夫

学生時代から京都大学に在籍し,結局一度も学外に出ぬまま定年を迎えました.それがよかったのかどうかはわかるすべもありませんが,私にとっては良い環境のもとで自分の好きなことを思いのままにさせてもらったという印象が強く,幸運であったと感じています.これまでのことを振り返り,その時々に研究や教育について感じたことを雑感として記してみたいと思います.

京都大学工学部精密工学科の第1期生であった私の卒業研究は,沢村泰造先生の研究室での油圧サーボ機構の実験的研究でした.修士課程在学中に沢村先生が他大学に移られたこともあって,博士課程からは数理工学科の椹木義一先生の研究室に移り,離散時間型確率システムの最適制御という制御理論分野のテーマで学位をいただきました.

精密工学科時代は数理工学科などで行われている理論分野の研究が自分のしている泥臭い実験的研究に比べてなにか高級な感じがしてあこがれていたのですが,いざ数理工学科で理論の研究に従事してみると今度は機械系での実験的研究が地に足の着いたものと感じるようになったりして,われながら腰の据わらない心理状態にありました.しかし,精密時代にわずかながら実験的研究を垣間見ることができ,また数理時代には仲間との輪読会のおかげで,関数解析,確率論,ゲーム理論,最適制御理論などをじっくりと勉強することができました.結果として,研究生活への入門時に実験と理論の両方に触れることができたのは,どちらも怖くなくなったという意味で大変よかったと思っています.

学位をいただいてから1年ほどを数理工学科助手として勤めた後,宇治キャンパスにあった工学部附属オートメーション研究施設の花房秀郎先生の研究室に助教授として勤めることになりました.花房研究室はちょうどサーボ機構の研究からロボットの研究への転換期だったのですが,その中で私自身は相変わらず制御理論分野の仕事を続けていました.研究室での議論などを通じて多少はロボットに興味を覚え,一部の研究に参加するようになってはいましたが,しょせん片手間仕事の域を出ませんでした.

本格的にロボットをやってみようとという気になった一番大きなきっかけは1982年1月にR.ポール著の本「Robot Manipulators」(MIT Press, 1981)を偶然手にしたことです.ロボットに固有の学問体系はできないだろうとなぜか勝手に思い込んでいた私には,このロボット工学に関する世界で初めての教科書の体系的記述は驚きであり,本気で研究するに値する分野だと信じるようになりました.そして自分自身の勉強のためにもこのすばらしい本の翻訳をしたいと思い,ポール先生に連絡を取りました.後日聞いたところでは,日本の著名な自動制御の先生もこの本の翻訳を同時期に考えておられたとのことですので,間一髪で私が翻訳できることになったようです.

およその翻訳原稿ができた1983年6月にポール先生をパデュー大学に訪問し,計8回延べ12時間にわたる討論で本の内容に関する疑問点とともにロボット工学全般についても話をうかがうことができました.ロボット工学分野で論文らしい論文も書いていなかった私に,よくもこんなに長い時間を割いていただけたものだと,感謝するとともに今でも不思議に思うくらいです.

さらにこの訪問が縁で,ロボット工学に関する世界初の国際シンポジウムである第1回 ISRR (International Symposium on Robotics Research)に参加できることになりました.6月のポール先生訪問の後,ヨーロッパ経由で帰国して1週間ほどたった8月はじめにポール先生から国際電話がかかってきて,9月にニューハンプシャー州ブレトンウッズで開催されるISRRに“All expenses are paid”で招待されたのです.招待予定者に急に空きができたからではなかったかと推測しますが,もちろん即座に受諾しました.ISRRの会議ではロボットの操作能力を定量的に評価するための可操作性という新しい概念を提案したのですが,この可操作性については次のような思い出があります.

ISRR参加の10年前にさかのぼりますが,1973年から2年間米国アラバマ州のマーシャル宇宙飛行センター(1969年の人類の月面初着陸に使われたサターンⅤ型ロケットを開発したNASAの研究センター)に留学しました.研究テーマとしては,せっかく普通とは違うところに留学したのだからここでしか出来ないことをやるのが面白いと単純に考えて,CMG(コントロール・モーメント・ジャイロ)による人工衛星の姿勢制御を選びました.CMGとは定速回転する複数個の重いこまからなる装置で,これらのこまの回転軸方向を変えるときに生じるジャイロ効果を利用して飛行体や船などの姿勢制御に用いられます.宇宙への応用では通常,CMGの一部が故障しても姿勢制御能力が完全には失われないようにこまの数を多くして冗長性を持たせますが,冗長性を持ったCMGにおいてもなお,たとえば全てのこまの回転軸が平行になってしまうとその軸まわりの衛星の姿勢制御能力が失われます.このような姿勢制御能力を失ったCMGの状態は特異点と呼ばれます.そこで冗長性を利用してCMGの特異点を回避しつつ衛星の姿勢を制御するアルゴリズムを開発しようと考えました.そして任意のこまの姿勢が特異点にどの程度近いのかを定量的に表す一つの距離指標と,この距離をできる限り大きく保つように働く特異点回避アルゴリズムを提案したのです.しかしこの研究結果に対するNASAの人々からの反応はほとんどありませんでした.

米国留学から帰国した直後は,再び宇宙とは無関係な制御理論の研究に戻り,留学中の生活は制度や価値観の異なる社会を身をもって経験できた点で大きな収穫ではありましたが,留学中の研究は自分にとって一体何だったのだろうと思うこともありました.

ところが,1980年頃からロボットのことをあれこれ考えている内に,NASAでの結果が冗長ロボットの特異点回避制御にそっくりそのまま使えることに気づきました.冗長ロボットというのは遂行すべき作業に最低限必要な関節自由度よりも多い自由度をもつロボットのことです.ヒトの腕の場合でいうと,肩関節から手首関節までの間に合計7つの回転自由度をもちます.手先で物を把持してその位置や姿勢を思いのままに動かすという基本的な作業をするだけなら最低6自由度あればよいので,ヒトの腕は1自由度分の冗長性をもつことになります.この冗長性のおかげでヒトは障害物の裏に回りこんだ場所で作業をしたり,手先の物体操作能力が落ちるような腕姿勢(これを特異点と呼びます)を避けて作業をしたりすることができるのです.同じことが冗長ロボットの場合にもいえますが,その場合の制御問題が人工衛星の特異点回避問題と同じだというわけです.これに気づいたことはうれしかったのですが,CMGに対して提案した特異点からの距離指標の物理的意味は不明瞭なままでした.いろいろ考えてはみましたが納得のいく解釈が得られないまま時間が過ぎていきました.

1983年にポール先生からISRRへの招待の電話をいただいたのが,ちょうどこのような状況にあるときでした.せっかくすばらしい機会を与えていただいたのだから何か新しい結果を発表したいと思い,距離指標の物理的意味を再度懸命に考えてみました.その結果,日本出発の10日前になって,この指標がロボットアームの手先で物を操るときの操作能力を定量化したものであると意味づけられることが分り,可操作性の概念にたどり着きました.さっそくこれを講演論文にまとめ,なんとかISRRでの発表に間に合わせることができました.ささやかな成果ではありましたが,宇宙分野での研究がロボットの分野で生きてくるとは,まったく思いもしなかった展開でした.そしてこの経験から,そのときどきに一番面白い,一番やりたいと思ったことをとにかくやってきたことが,間違いではなかったと自信を取り戻すことができました.ただその一方で,学会でなにか新しいことを発表したいという,研究の本質からは少し離れた動機が,数年かかった課題の解決のきっかけになったということに対しては少し残念な気がしました.

可操作性に関してもうひとつ思い出があります.ISRRでこれを発表したところ外国の出席者から面白いアイデアだと言われかなり好評でした.ところがその後がいけないのです.可操作性を manipulatability という造語で発表したのですが,この造語がなかなか発音してもらえず評判が良くなかったのです.そこでIJRRという学術雑誌にフルペーパーとして投稿する直前にやっと決心して manipulability と改めました.この改名は結局良かったようで,幸い現在も一般的に使われています.しかし新しい概念の命名は難しいもので,後年別の分野で私たちが発表した研究の中にも,概念自体は新しく良かったと思えるのに,命名で失敗したため他の名称に破れ去り振り返られなくなったのだろうと残念に思う結果もあります.概念の本質を明瞭に表し,かつ発音しやすい名称を見つける努力をすることが大切だと痛感しました.

さて,1985年頃から大学院学生を相手にロボット工学の講義を担当することになりました.ポール先生の本はロボット工学の最初の体系的教科書として記念碑的な意味合いをもち,インパクトの大きな本でしたが,私が思い描く講義内容に対しては必ずしも適しませんでした.そこで私自身で3年間ほどの講義ノートをもとにロボット制御に関する教科書を執筆し1988年に出版しました.また1990年にはこの本の英語版をMIT Press から出しました.このときに教科書を書く作業はかなりの時間と労力を必要とするけれども結構楽しく達成感があるものだということがわかり,その後も現代制御論(1994年,井村順一氏と共著),古典制御論(2003年)などの教科書を,ゆっくりと時間をかけて楽しみながら出してきました.

これらの教科書執筆の過程で,いままで読んできたいろいろな教科書について,また教育と教科書の関係について考えることになりました.私自身の経験として気がついたことのひとつは,講義を受けたときや教科書を読んだときに,一度誤解し混乱して受け取った事項や概念の多くが,その後長く理解が難しいものとして苦手意識とともに残ることです.逆に,最初にうまく直感的理解が得られると難なく自分のものとなってしまって,それを努力して習得したという意識すらあまりないように思います.その意味で,よい講義とともに,良質の直感的理解を促すようなわかりやすい入門的教科書が教育にとって非常に大切だと感じています.

このように考えたため,私の3冊の著書ではいずれもわかりやすく書くことを私なりに心がけ,そのことを本の「はじめに」でも述べてきました.とくに2年前に出した「古典制御論」の「はじめに」では「わかりやすく(ないし,わかりよく,わかりよい)」という単語を計8回も使ってしまっており,あとでこのことに気がついたときには我ながらしつこすぎるなと思ったりもしました.ところがこの本は,ある学会誌上で,学生にとっては敷居が高いだろうが先生にとっては頼れる教科書である,という旨の書評をいただいてしまいました.先生向きだと言っていただいたのは光栄なことではありますが,多少複雑な心境です.学生さん向けのやさしい本を目的に書いたつもりだったにもかかわらず,あれも明確にしておかなくては,これも直感的な意味を説明しておかなくてはと思って書き込んでいる内に,内容が盛りだくさんになり詳細になり過ぎてしまったようです.教科書を書くというのはやはり難しいものだなとつくづく思った次第です.

今年4月からは京都に近い私立大学で教育と研究を続けさせていただいています.講義の際の一クラスの人数や,教員一人あたりの卒研指導学生の人数が京都大学時代と比べて格段に多く,それらを含めて私にとっては新しい種々の事態への対応に知恵を絞る日々ですが,もともと若い学生さん相手の教育や研究指導は好きなことですので,やりがいを感じながら毎日を過ごしています.今後どのような研究教育雑感が付け加わっていくのかも楽しみのひとつです.

小文に書かせていただいたことは釈迦に説法(それもピント外れの説法)になってしまっているのではないかと恐れますが,本広報誌に随想を寄せるという定年退職教員の義務(?)の一部を果たすことが小文の趣旨だということでご容赦いただければ幸いです.工学部および工学研究科在籍中にお世話になった皆様方に感謝しますとともに,桂キャンパス移転を無事完了され今後さらに発展していかれることをお祈りいたします.

(名誉教授 元機械工学専攻)