ピカピカの1年生

評議員 伊藤 紳三郎

伊藤 紳三郎「ピカピカの1年生」という言葉がある。本来はランドセルを背負ったあの初々しい晴れやかな姿を表す言葉であろうが、京都大学に入学した18、19歳の1年生も、新たな生活への大きな期待と不安、そして誇りをもって入学式に臨んでいるであろう。工学部が毎年4月初めに実施する新入生歓迎講演会・グローバルリーダーシップ工学教育ガイダンスにおいて、京都会館の第一ホールを埋め尽くす約1,000名の圧倒するような数の新入生を演台から眺めると、彼ら一人一人の胸に抱く思いが大きな塊となって感じられる。しかしながら、半年が経ち後期の授業が始まるころには、すでに普通の学生となり、あの輝きは失われ、表面がくすんだ玉に変貌している。それは悪いことではない。むしろ当然であり、そうでなければ困ると思うくらいである。アルミもステンレスも表面が空気に晒され、酸化皮膜ができて初めて、耐久性のある社会で有用な材料になるのだから。表面よりも内部の輝きを如何に保つかが重要である。

最近、1年生に対して何を教えるべきか、初年次教育が活発に議論されるようになってきた。その原因として、2006年ゆとり教育の影響、新入生の精神的な若年化、少子化・18歳人口の減少、理科離れの傾向など、いろいろな社会的要素が複雑に絡み合って、新入生の行動となって表れている。したがって、対応策の議論も多様な方向に向かわざるを得ない。先日も京都府・京都市から招待された「薬物乱用防止セミナー」に行ってきた。「なんで大学の教員がそんな講習会に行かねばならんのか!」との思いで会場に向かったが、聴いてみるとなかなか興味深いお話であった。昔はノンポリとセクトという言葉に象徴されるような事柄が学生問題の主要なテーマであったが、最近は「カルト」に「ドラッグ」、さらには「セクハラ」までが課題となっているようである。今の新入生に何が足りなくて、何が本当に必要なことで、我々に何ができるのか、そんな思いを巡らしてみた。

1969年4月、この年の入学式はなかった。正確には、挙行しようとしたが、成立しなかった、と言うべきかも知れない。入学式どころか、全ての授業は休止状態であった。教室の入り口は幾重にもうず高く積まれた机でロックアウトされており、新入生は大学に来ても行くところがない。これ幸いにと旅行に出かける者、実家でのんびり我が世の春を過ごす者、来年の再チャレンジに備えて入試勉強を再開する者など、それぞれが良かれと思う自由を満喫していた。しかし大半の学生は、当時の大学や社会が直面している問題を少しでも理解しようと真面目に考え、毎日大学に来て、クラスミーティングを行い、身の丈に合わない議論を展開し、デモ隊や機動隊を見学し、また時には騒乱に参加し、ガリ版のクラス名簿や文集、クラス新聞を発行していた。もちろんコンパや麻雀、パチンコなど、現在でもポピュラーな遊びもあったが、それなりに忙しく充実した毎日であったように想い出される。

そんな情勢の中、当時の先生方は、何も知らずに入学してきた「罪なき新入生」をどのように処遇したものかと、さぞかし大変な苦心をされていたであろうと推察できる。それは今、自分が教員の立場になったから推察できることであり、当の新入生は充実した自由闊達な学生生活を送っていたのである。

そのころは今のように大学科制ではなかった。後に、学習の幅や視野が狭くなるとの理由で縦割り教育の弊害が叫ばれ、大学科に統合されたが、私は無責任・マスプロ教育を助長しただけと思っている。当時は教室(現在の専攻)単位の入試であり、40人から50人が一クラスとなっているので、同級生の所属意識、つまり同じ学問分野を志す仲間意識も強いものがあった。また先生方も自分の教室の学生という師弟意識を感じておられたであろう。新入生は入学してすぐに研究室に配属された。この年、特別に実施された新入生仮配属である。名前のアイウエオ順に6名ずつが一つの研究室に配属され、毎日出入りするようになった。特に何を研究する(できるはずがない)訳でもないが、助手の先生や修士課程の大学院生が、暇をもてあます新入生の茶飲み話の相手をいつでも気軽に引き受けてくれた。それなりの見識をもつ教師や先輩が身近にいて、話ができ、意見や情報、さらには生活知識まで得られることは有難く、大学における人間関係への信頼と安心感を与えた。大げさに聞こえるかもしれないが、世情不安なキャンパスの大海で、小船や浮き草のように流されやすい新入生にとって、港と灯台の役目を果たしていたように思われる。

ピカピカの1年生

新入生の研究室仮配属。教員、大学院生とともに工学部4号館屋上で撮影した記念写真。
(高分子化学科西島研究室:1969年4月)

もう一つの大きな存在は、クラス担任の佐野利勝先生であった。我々は難解なドイツ語の教師としか思っていなかったが、経済学と文学の素養をもたれ、滋賀医大や京大教養部で長年ドイツ文学を研究されながら、「沈黙の世界」や「不安の夜」など、社会と心理をテーマにした数々の訳著作を出版されていた。当時の学生運動についても、大量生産が発達した高度成長社会の中で若者が抱く心理を的確に解析されていた。F号館(今の吉田南3号館)に20m2程度の教授室があった。本がぎっしり詰まった天井まで届く書棚を背にして、西窓に向かって教授机があり、その横に数人がかけられるソファ、小さな流しとポット、インスタントのコーヒー、お茶が置いてあった。そんな偉い先生とは露知らず、暇な学生が数人集まると、佐野先生の部屋のドアをノックするなり押し入っていた。くだらない世間話をネタにコーヒーを飲みにきた若僧に対して、「おう、○○君か、まあ座れ」と、執筆の手を休め、眼鏡を外し、回転イスをソファに向けて、いつもにこやかに接していただいた。特に自説を主張されるわけではなく、学生の話に耳を傾け、「それはこういうことだよ、こんなことがあるんだよ」と解説し、学生がゴネると、「いやー、それは困ったなあー」と白髪の混じった後ろ頭を掻いておられた。「戦い」という言葉が周囲にあふれ、すべてのことを対立の構図の中で解決しなければならない、そんな重苦しい雰囲気のキャンパスの中に、柔和で温かく親近感のもてるクラス担任がおられたのである。

この間、佐野先生や教室の先生方の配慮で大型バスをチャーターしていただき、京都高雄へのクラスハイキングもあった。思えば我々新入生にとって、この半年間は貴重な経験であり、かけがえのない社会勉強であった。「君はなぜこの大学に入学したのか、何のために学ぶのか、社会に対して何をするのか、その責任はどうなんだ」。こんなハードな質問を自問自答するのみならず、クラス仲間にぶつけ、口論するように話し合った。好むと好まざるとにかかわらず、そうせざるをえない雰囲気であった。今出川通りがバリケード封鎖され、学生と機動隊が衝突し、催涙ガスが工学部4号館の周囲にまで漂っていた。学生と学生どうしの衝突はもっと過酷であった。一つ一つの事柄、一人一人の人間を見れば狂気としか思えないことが、高揚した集団の中では平然と行われ、傍観者でいたはずの自分がいつしか群集の心理に巻き込まれていた。人の心とは恐ろしい、また弱いものである。

夏が過ぎ、この異常事態は収束に向かうことになる。10月頃には授業が再開された。1年生を留年させてはいけない、全員なんとか進級させなければならないと、猛烈な詰め込み授業が開始された。しかし詰め込み教育は、所詮、詰め込み教育である。もちろん久しぶりの授業なので学生の学習意欲は旺盛であったが、半年間、勉強の「べ」の字も考えてこなかった頭脳に、知識の急速充填などできるはずがない。当然の結果として、前期は空白の半年であったと言っても過言ではないだろう。しかしながら人材育成の成果として評価するなら、決してマイナスの半年ではなく、プラスの半年であったと思う。極めて異質な初年次教育0.5年+基礎・専門教育3.5年、計4年間の学部教育の成果を測るメジャーはないが、我が学年の能力が劣っていたとは決して思わない。むしろ社会で活躍する多くの人材を輩出した優秀な学年であると自負している。見方を変えると、授業をしない初年次教育の社会実験が図らずも1969年に行われ、そして成功裏に終了したのではないかと思う。

それから早くも40年が経過した。「えっ、マジで?」と信じられない思いでもう一度計算をしてみたが、年齢で引き算をしても、西暦で引き算をしても、やはり40年が経っている。今の学生は真面目になった、よく勉強するようになった、との評判をよく耳にするが、その一方で、サークルやアルバイトにのめり込み、それがきっかけとなってどうしても単位を取れなくなった子、大学生活に適応できず、吉田の方向に足を向けられない子、自分だけの世界に閉じこもらざるをえない子など、いわゆる過年度生は決して少ない数ではない。何十人もの過年度生を一人一人呼び出し、事情を聞いた。親子との3者面談、事務主任を加えて4 者面談もした。留年通知の手紙に成績表を同封して実家に郵送すると、「そんなはずはありません。毎日弁当をもって学校に行っています!」と母親から抗議とも思えるような電話がかかってきた。だが学校には来ていない。新たな問題学生の発見である。8年の就学年限を過ぎるために卒業ができない26歳の学生に「別の進路を考えなさい」と宣告しなければならない辛い役も演じた。こんな思いは二度としたくない、早期発見早期ケアが必要との思いから、チューター制度の導入を学科にお願いした。はっきり言えることは、彼らのボタンの掛け違いは、1年生のときに起きているということである。

時代により、若者の行動がそれほど大きく変わるとは思えない。「今の若い者は!」と言うのは中高年の一種の口癖である。しかし、今の新入生に何が足りないのか、何を学ぶべきかと問われれば、私は「社会体験」と答えたい。それは大学で、座学により教えられるものではない。彼らは何年もの間、塾と高校と自宅の間を毎日往復してきた。手取り足取りで受験知識を詰め込まれてきた。そんな彼らに本当に与えてあげたいものは、自分を社会の中で見つめ直す機会と余裕である。

最後に夢のような話をしよう。もし許されるものならば、3月入試に合格した受験生には、「京都大学入学切符(2年間有効)」を発行して、その裏面には「もう一度よく考えて、入学を希望するなら9月から入学してください。気が変わったら辞退しても構いません」と書いておく。余談になるが9月入学は大学の国際化に貢献するかも知れない。学生は入学までの間に海外に留学して、異文化への見識を広げてもよい。介護施設や保育園、病院などでボランティアをして、社会奉仕活動をすればもっと良い。そんな良いことをしてきた学生には、入学後に既修得単位を10単位でもよいからドーンとはずんであげたい。そのような人間社会の現実を直視できる場を体験し、そこで人間の「生と死」を見つめる経験を二十歳までに一度はするべきだと思う。その結果、「社会に貢献するために、自分を高めるために、もっと勉強をしたい」と、自らの意志を確認することができた学生が「切符」を行使して大学に入学し、学びたい分野の学問を始めてほしい。もちろんそこには佐野先生のような心優しい師や、志望分野の先達となる教授や先輩がいて、もうピカピカではないが、味わいのある輝きを放つようになった新入生の話を聴いてほしい。これが本来の望むべき姿であり、皆がハッピーになる理想形だと思うのである。全く不可能な夢ではなく、その気になれば実現できそうな夢ではないだろうか。

(評議員 工学研究科副研究科長)