No.55 (2011.4) / 巻頭言 / 高大連携の行方について

高大連携の行方について

評議員 北野 正雄

北野 正雄2011年は全く尋常でない年になりました。例年になく寒さの厳しかった冬が終わらないうちに、入試における意表をつくトラブル、さらに想像を遥かに超える歴史的災害に見舞われ、平常心を保つことも困難な中で呆然と春を迎えようとしています。

今回の工学広報は教員の退職年齢引き上げの影響で、寄稿が少ない特別な号になっています。巻頭言を依頼されましたが、相応しい話を持ち合わせていませんので、ともかくも、教育、とくに高校との連携に関して、普段考えていることを少しお話ししたいと思います。

若者の理科離れが話題にのぼるようになったのは、1990年代の半ば頃だったように思います。バブル景気に浮かれて、堅実に働くことが軽視されがちな時代の反映だったのかも知れません。私自身、学生のものづくりに関する経験や関心の低下を痛感するようになり、2000年頃から「ブラックボックスを開けよう」と題するポケットゼミナールを始めました。身の回りのエレクトロニクス製品を実際に壊して中を覗き見ることで、技術的創意工夫を感じてもらおうというものです。 好奇心から、親の目を盗んで珍しいものを恐る恐る分解し、結局壊してしまうのは、少年期の特権であったはずなのですが、今のよい子には許されていないことのようです。遅まきながらが、大学でそれを体験してもらっているわけです。

理科離れ対策として、文部科学省のスーパーサイエンス校(SSH)指定制度が2002年から実施されるようになりました。また、全国的に大学や学会が出前授業などの形で高校の教育支援を行うようになってきました。私もこの頃から高校との交流の機会が少しずつ増えてきたように記憶しています。

このように全国展開されている高大連携活動は果たして、理系離れ対策に効を奏しているのでしょうか。答えは“Yes”と“No”相半ばといったところだと思われます。

よい方の話からしましょう。多くのSSH指定校ではグループによる課題研究を実施しています。数名のグループで希望する課題について半年、あるいは1年以上かけて研究を行い、その成果を発表するというスタイルです。ある高校での発表を定点的に参観してきましたが、内容、発表ともに年々レベルが着実に向上してきています。初期の頃は、準備した原稿を読み上げるだけで精一杯という感じでしたが、最近は、どのプレゼンテーションもよく練られており、聴衆の興味をうまく引きつけ、質疑応答も実質的なやりとりになっています。また、ある学会のジュニアセッションの事前審査を担当しましたが、申請書がどれも面白く、思わず読み入ってしまい、甲乙をつけるのに大変苦労しました。年々の改善は、もちろん現場の先生方の献身的努力の成果といった面もありますが、それ以上に学習環境(雰囲気あるいは場といったもの)の変化が作用しているように思われます。

このような高校での課題研究は、大学での卒業研究と多くの面で類似したものになっています。これは考えてみれば当然のことで、人的資源をある程度贅沢につかえる状況では、 少人数のグループで、時間をかけて課題に取り組む、というスタイルに集約されてくるのだと思います。(最近は研究室教育が密室的なものとして批判の俎上にあがっているようですが、現場感の希薄な意見だと思われます。)大学は、卒業研究や実験・実習系の授業など、 少人数教育に関する長い経験を積んできており、初等中等教育の場にノウハウを輸出できる立場にあります。したがって、出前講義のような座学的なものだけでなく、実験・実習的な活動をサポートする方向が重要ではないかと考えています。

悪い方の話です。アウトリーチ活動などの、理科離れ対策がそれなりに効を奏して、質の高い課題研究を体験できる高校生が増えていることは事実です。しかし、実際に大学に入ってくる学生を見ていると、それほど理科好きが増えているとは思えません。むしろ、逆の印象さえあります。工学部に入学しても、勉強内容に興味が持てず、行き先を見失ってしまう学生の割合は確実に増えています。このパラドックスについては、いろいろな説がありうるので、ここではあまり深入りはせず、関係することを少し述べておきます。

大学は試験による選抜を一種の必要悪として維持しているわけですが、偏差値という単一尺度に連動するペーパーテストの結果で選抜を続けている限り、それに鋭く焦点を合わせた受験テクニックだけが見苦しいほどに進化し、教育内容や生徒の興味など、本来重要であるべきことは、後ろに置き去られてしまいます。その矛盾を和らげるためにも、高校生に大学での勉学のあり方や学問の内容の面白さを直接的に語りかける努力を意識的に行わなければならないのだと思います。また、高校だけでなく、理科離れに決定的な影響を持っていると推定される中学あるいは小学校高学年程度にまで前線を拡大する必要があると感じています。

アウトリーチ活動は、砂漠に水を撒くようなものだと躊躇している方もおられると思います。私も当初はそのような気分で、あまり効果は期待せずに細々とやってきました。しかし、実際には反応はいろいろな形で現れてくるもので、高校での授業を受けましたという学生が案外身近にいて、声をかけてくれたりするといったことが少なからずあります。

自分の専門と高校の教育内容にギャップのために、彼らに向かって、何を教えてよいか分からないと戸惑われている場合も多いかも知れません。身の回りの成功例を見ると、最先端の研究と高校の教育内容の中間点に、ほどよい課題を設定できていることが分かります。これは研究者一人一人が懐を深くするという意味で考えるべき点でしょう。

工学研究科においても、昨年度から教員による高大連携活動実績を今後の展開の基礎資料としてデータベース化することを始めています。

今年度から1件あたり年間3000万円以上の公的研究費を受け取っている研究者について、「国民との科学・技術対話」(アウトリーチ活動)がプロジェクトの評価項目になるということです。義務化やポイント制導入で、何とかなる問題ではないように思うのですが、評価病の典型例ということでしょうか。一方、現状での各教員の個別的、ボランティア的対応に限界があることも事実であり、これを契機に大学としての支援体制を整備するなど、よい方法を見出す方向を探るべきなのかも知れません。

アウトリーチ活動は、初等中等教育における実習や課外活動を支援し、科学を身近なものとして楽しむ文化を醸成する役割を担うべきだと思います。成績評価や進学といったことに直結させると、たちまち形骸化が進むことは容易に想像されます。

正規の授業(実験も含めて)に関しては、科学・技術に関して豊かな素養をもった正規の理科教員が担当するのが本来の姿でしょう。そのために、理系の教員を充実させるというのであれば、工学部の卒業生がもっと教職についてもいいのではないかと、私はつねづね思っています。実際には、工学部のカリキュラムは教職免許の取得を考慮しておらず、たとえ学生に志があっても教員への道はあきらめざるを得ません。修士や博士課程までかけて、必要単位を習得できるようなシステムづくりを考えてもよいのではないでしょうか。

理科離れの施策の1つとして理科支援員制度があります。文部科学省が2007年度から、公立小学校を対象に始めたもので、科学に造詣が深い人や、大学の理系学部の学生らが理科支援員となり、授業や実験を補助するという制度です。理系の教員が不足しがちな現場からは、大変歓迎され、有効活用が進んでいたようです。しかし、先の事業仕分けに遭い「必要性は理解でき、否定しないが、内容・やり方を見直す必要がある」とされて、規模縮小を余儀なくされてしまいました。補助金事業には馴染まないという判断なのでしょうが、永続性のあるシステムが確立するまでのつなぎとしての位置付けが必要なのではないでしょうか。何につけても、机上で作成された施策と現場の乖離は大きく、SSHなどでも申請書や報告書などの作成で高校の先生方が一層忙しくなり、生徒と接する時間が減ってしまったという話も聞いています。行政の役割は教育環境の継続性のある整備であるという基本を逸脱してはいけないのだと思います。

理系のリテラシー教育がうまく行っていない例として気になることをひとつあげておきます。新聞などで、「キロ」を長さや質量の単位として使っている例が見受けられます。「キロ」は1000倍の意味であることを完全に忘れているのです。また、「4千万キロワット」という表記が見られますが、これは「40ギガワット」と書いた方がずっと分かりやすいと思います。電力は「キロワット」で表すというマニュアルがあるのかも知れません。放射能の単位に至っては、時間あたりなのか、質量あたりなのか、全く分からない大混乱状態です。今回の大震災で露呈されたように、現代社会は実に多くの重層的な技術の上に精緻に組み立てられており、それを支える各分野の有能な科学者、技術者の育成は社会を維持する上で優先度の高い課題であると考えられます。また、社会の構成員の大半が科学・技術の基礎を理解していることも同じく重要なことだと思われます。

理科離れを食い止めるための活動は、学会、NPO、従来、研究支援を行ってきた財団など広がりを見せています。このような社会をあげての取り組みの一翼を担うことが高大連携活動に期待されているのだと思います。

とりとめのない話になってしまいましたが、評議員(研究担当)を2年間務めさせていただくことになりました。何卒よろしくお願いします。

(評議員 工学研究科副研究科長)