幸運な時代の学生生活

松久 寛

松久教授私は1947 年生まれ、すなわち、団塊の世代であり、この3月で定年退職である。今の2倍を超す子どもの数で、ぎゅうぎゅう詰めの毎日であった。でも、幸運な世代であると思う。というのは、(1)戦争がなかった、(2)飢えなかった、(3)身分制度がなかった、(4)経済成長を続けた、などが理由である。歴史上このような社会が数十年間も続いたのは、日本のみならず、世界でもまれである。とくに上記の(4)の成長は、工学部に身を置いたものにとっては、非常に重要である。私が幼少の頃にはラジオぐらいしかなく、徐々に、洗濯機、扇風機、炊飯器、石油ストーブ、白黒テレビ、電話、掃除機、冷蔵庫、カラーテレビ、エアコン、車と所有していった。次々と現れる製品は家事労働からの救世主であり、次のボーナスで何を買うという目標であり、それが実現する度に家族で幸せを味わった。 

そのような、世相の中で1966 年に京都大学工学部に入学した。私は、動く機械に興味があったので、入学と同時にトラクター研究会というのに入った。そこでは、トラクター自体を研究するのと、トラクターを使って面白いことをしようという二面があった。そのころトラクターを使っているのは北海道ぐらいであった。そこで、まず1年の夏休みに北海道の牧場に行った。京都駅から急行列車を乗り継いで十勝まで50 時間かかった。朝夕の乳しぼりと冬のための干草作りの毎日である。肉体労働をしたことの無い私にとって、当初はほんとにしんどい日々であったが、1、2週間で体も慣れた。1か月ほど働いて、北海道、東北を周って京都に戻った。 

1年の春休みは九州の九重高原の原野の開墾に行った。耕運植林の研究という目的である。すなわち、杉の苗木などを植えるときに、穴を掘り、下草を刈るのは手間がかかる。そこで、なだらかな山全体を大型のトラクターで耕運してしまい、その後に苗木を植えるのである。学生5人が、農家に住み込んでいたので、毎晩宴会であった。私たち素人学生が大型トラクターを運転するので、無理な負荷がかかり、トラクターが故障してしまった。その修理を待つ間、焚き火をしながら、談笑にふけっていた。そのうちに、火が周りの枯れすすきに燃え移り、あっという間に火は広がった。これは、我々だけでは消せないと、近くのドライブインに飛び込んで、消防署への連絡を頼んだら、村中の人が両手でもつ蠅たたきの親分のようなもの消火具を持って出てきてくれた。それで、たたき消すのである。しかし、なかなか消えず、もうダメかと思った。そこで、無理を承知でトラクターのエンジンをかけて、火の周りの枯れ草を鋤き込んで防火帯を作り、消し止めた。村の人達に、何回謝ったことか。その数日後、村の人達がススキが原の山焼きをしていたが、火が広がり、植林地に近付いて行った。そこで、数日前の経験を生かしてトラクターで防火帯を作り、鎮火させた。それは、新聞に「京大生が山火事を消す」と紹介された。その記事を見た湯布院の町長が家に招待してくれたりした。しかし、前科があるので、複雑な心境であった。 

2年の夏は、トラクターで富士山に登った。これは、高地におけるトラクターの性能調査という名目であった。砂地で急傾斜のために、押したり、板を敷いたりしながら2日かけて登頂した。これは、登るという行為よりも、その準備の方が大変であった。トラクターの借用、道路の通行許可などである。この通行許可が、静岡県と山梨県の警察署、建設省、荷役業界から浅間神社まであり、ここで、京都大学という名前が良く効いた。その映像はトラクターメーカーのテレビのコマーシャルに2 年間ほど使われた。 

トラクター

京都大学トラクター研究会の冨士山登頂、 1967年夏

3年後半になると、世界中に大学紛争が勃発し、京都大学にも波及してきた。このころは戦後の復興成長期の歪みが出てきたころであり、旧来の体制が再検討された。大学においては封建性の象徴として講座制が問題となった。そして、4年生になり、私を含む10 名は講座に入らずに、自主研究室なるものをつくり、そこで卒論を書いた。 

修士課程はアメリカのジョージア工科大学に行った。大学の奨学金をもらって、貧しい日本の学生が豊かな世界に飛び込んだのである。当時は、アルバイトの単価は日本では1時間100 円で、アメリカでは1000 円であり、実に10 倍の差である。ウエーター、芝刈り、日本語の家庭教師とよく働いた。英語、知識、金のすべてで苦労した。でも、別に卒業できなくてもいいと居直ることによって、ほどほどに楽しい生活が送れた。ドイツからの留学生とおんぼろ自動車でのメキシコの太平洋岸のアカプルコまでの往復6400km の旅行などもした。 

アメリカでの生活が終わりに近づくと、日本が懐かしく帰りたかった。しかし、いったん帰国すると当分外には出られないだろうと思った。なにせ、大卒の初任給が5万円で、アメリカまでの飛行機の片道料金が20 万円、1 ドル360 円の固定相場、ドルは留学などの公の書類をもって日銀までいかないと換金できない時代である。そこで、日本に帰る前にヨーロッパに行くことにした。安く行く方法は就職である。オランダのロッテルダムにある工作機械を作っている会社に研修生として採用された。住居は数室しかない民宿のような小さなホテルである。そこで朝食と夕食をとった。食パンが何枚も積んであり食べ放題であるが、おかずは、ゆで卵が一つか、ハムが一枚か、スライスチーズが1 枚である。三つ出るのではなく、どれか一つである。それに紅茶が付いている。ヨーロッパの食事の質素さは、日本以上であった。アメリカで、薄い食パンに何枚ものハムやチーズを挟んで食べていた身にとって、特に夕食は耐えられなかった。 

ホテルには、私と同年代のオランダ人がいた。彼と話していて、オランダと日本の深い溝を初めて知った。太平洋戦争で日本はインドネシアに侵略し、そこを占領していたオランダを破り、オランダ人を捕虜にして、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道建設の工事に従事させ、多くのオランダ人が死んだのである。彼は、「泰緬鉄道の枕木一本ずつの下にオランダ人が眠っている。すべてのオランダ人には、日本に殺された家族や親類がいる」と言った。ある日、町のバーでドイツ人と話した。彼は、「オランダとドイツは仲が良くないから住みにくい。日本人のお前はオランダではなく、ドイツに来ればよかったのに。歴史は消えないのだ」と言った。 

ある日、ホテルの70 歳ぐらいのオーナーが「カメラが無くなった。知らないかと」と疑いの目で言ってきた。それは、コダックのインスタマチックという安いものであった。当然、私は、「知らない。私は良いカメラを持っている」と答えた。しかし、そのオーナーは会社に「ヒロシがカメラを盗った」と言いに行った。そこで、私はそのホテルを出て、会社の同僚のチェコ人のアパートに同居させてもらった。彼も、ヨーロッパでは民族間、国家間の長年の争いがあり、それは、何百年も忘れられずに生きているといった。そのような状態なので、長居は無用とオランダは早々に切り上げ、ヨーロッパを周って帰国した。帰国後、ベルギーの友人からの情報が耳に入った。ある日、杖をついたオランダのおばあさんが家を訪ねてきて、「ヒロシがカメラを売りに来なかったか」と尋ねたそうだ。私がホテルに滞在中に、ベルギーの友人のところに遊びに行ったが、その時の電話番号から、彼の住所を調べたらしい。この話を聞いたときに、執念というか、歴史の恐ろしさを感じた。私が、日本人でなければ疑いはかけられなかったであろう。 

京都大学博士課程在学中は、労働災害、職業病、公害などの運動に関与し、京都大学安全センターを設立した。被害者である住民や労働者に、病と原因の因果関係の立証を求められたが、専門家はだれも協力しないので、常に泣き寝入りをさせられていた。大学の先生も、住民や労働者から協力を依頼されると、「私は専門でない。多忙である」などと断るが、企業や行政から頼まれると、二つ返事で引き受ける。そこで、労働者や住民にも開かれた大学をつくろうという運動である。ふりかえると、「公害」と言っていた時には、誰も近づかなかったが、「環境」と名前が変わり、体制化されると多くの環境学者ができた。「反原発」もこれから同じ道をたどり体制化されると、多くの「核環境」学者が出現するであろう。 

このような、多くの体験ができた時代に生まれたことを幸運に思っている。しかし、この数十年の成長の時代に、資源や環境を使いつくし、次の世代に負の遺産を残すことは申し訳なく思っている。そこで、最近は、せめて数十年先の孫の時代までは我々の責任であると考え、成長から縮小への転換、すなわち縮小社会へのソフトランディングの方法を求めている。

(名誉教授 元機械理工学専攻)