コンピュータとの出会い

工学研究科技術部副技術長 古谷 俊二

古谷 俊二1970 年4月京都大学に就職が決まったので、年末からスキー場で長期のアルバイトを予定していたが、突然、京都大学から1月1日付けで中途採用の電話があった。スキー場でのバイトを楽しみにしていたので、母に「どうしよう」と聞いたところ、(当然のことであるが)就職しなさいと言われてしまった。かくして、1970 年1月1日の仕事始めの日が、京都大学での初日となったのである。

当時は、情報という分野はなかったので、私は国家公務員試験(電気)の資格を取ったのだが、連れて行かれたところは(学内)計算センター(工学部1号館)であった。(学内と付けたのは、京大には全国共同利用の大型計算機センターもあったため。) コンピュータなど見たことも触ったことも無かったが、興味は大いにあった。「やった!」小躍りしたい位嬉しかった。計算センターでは、ユーザのジョブ(計算依頼)を処理するオペレーションが主務で、それ以外に、矢島先生(当時、電気工学教室)と(株)日立製作所が共同開発したKDC-I(1960年日本の大学で最初のトランジスタ式計算機)の保守を行った。時間があると藤井先生や黒嶋先生とFortran 言語・機械語・論理回路等の勉強会をし、種々のマニュアルを読み、コンピュータを自由に使わせてもらい、知識と経験を身に付けていった。

1972 年10 月に、工学部情報工学教室(1970 年4月創設、建物は2年後に完成)計算機室に移籍し、コンピュータの管理・指導を任されることとなるが、コンピュータ(日立H-8350)が搬入されたのは翌年1月末であった。3、4回生の学生実験や研究で使用されたが、当時としては珍しく、ユーザがジョブを自分で入出力するオープンバッチ方式で運用された。買取りだったので10 年間使用されたが、学生実験は、1グループ5~8人でワイワイと議論しながらプログラムする楽しい実験風景であった。

1982 年3月にレンタルで、日立M-240H が導入されTSS 方式で運用された。 以後、4年毎にリプレースされ、違ったマシンを使用することとなる。
1985 年には、新たに、媒体統合型研究推進システム用のIBM3081 とIBM4361 も設置され、ネットワーク(KUIS-LAN、 IMEL-LAN、IBM 配線システム)も管理しなければならず、煩雑で大変であった。

情報工学教室の研究室では当初からUNIX が使われていたが、学生実験では一般的なIBM360 アーキテクチャのOSを採用することになっていたため、私は、非UNIX 派の一人であった。

コンピュータとの出会い時代の流れで、1990 年3月にはUNIX マシンが導入されるようになったが、非UNIX 派にはなかなか馴染めなかった。2002 年3月にはより低コストのLinux マシンになり、現在に至っている。

今は、Linux はコンピュータ雑誌の付録についているほど一般的で、パソコンにも簡単にインストールでき、ビジュアル化され使い易く便利になった。

今まで、大型コンピュータからパソコンまで20種類以上のマシンとOSを触ってきたが、消化不良の部分が多々あったように思う。

日立H - 8350を10 年間使い、課金プログラムをアセンブラ言語で総計2万ステップ以上書いたのと、大学院入試採点集計&配属プログラムをFortran 言語で作成(その後マクロを使ったExcel に移行)し集計したのが、非常に印象的であった。

最後に、2007 年4月に工学研究科技術部が発足したばかりで、技術職員全員が技術部の確立に向け、なお一層努力されることを希望しています。

(技術専門職員・情報学科計算機科学コース 計算機室)