大学で重要なのは管理、それとも教育、研究?

芹澤 昭示

大学で重要なのは管理、それとも教育、研究?何とも馬鹿げた質問かとお考えでしょう。言うまでもなく大学の本来の使命は教育と研究であり、管理はそれらをより効率的に機能的に、そして組織的に行うためのルールのようなものであると、また事務組織はそれを支援するためのものと誰でも考えるに違いありません。しかし、本当に大学における管理がそのような方向になっているのか大変疑問に感じている人も少なくないでしょう。また、管理する立場の人が教育や研究の在り方や実情を理解していないため、管理が故に教育や研究の芽を結果として潰しているケースが少なくない。そして残念ながらそうした事実があることすら把握・理解されていないと疑われるケースが近年特に増えているように感じます。管理が尊重され、教育、研究がその下に位置している、そうした誤った機構や考え方が、大学の評価・管理、概究・教育、さらには個人の業績評価や給与体系の面に見られるのは残念なことである。

一例を挙げると、ある教授の先生から聞いた話である。あるとき、同じ研究室の若手の先生が、その教授のところに来て「勤勉手当の成績率欄の数字が70/100と書いてある。自分は一生懸命研究・教育に努力しているにも拘らず、70点の評価しか貰えないのはおかしい。一体何をすれば満点の評価になるのか」と憤慨していたとのことである。私もその次の期末手当の際に給料袋の数値を見た。同じ70/100であった。ある教員が非常に優れた論文を沢山書き、一生懸命教育やその他の学術活動に力を注ぎ、国際的にも大いに活躍し大きな成果を出したところで給与に何も反映されない[受賞の場合は除く]。勤勉手当の評価は70%である。京都大学では70/100は「良好」で、80/100は「優秀」との評価であると聞いた。しかし、100%が本来の職務を全うした場合の評価である筈であり、常識的に考えれば、70%の評価は「まともな仕事をしていない」ということになる。特に、教員は普段から学生たちの成績の採点を自ら行っているので、100点満点中の70点の持つレベルを肌で感じ知っている。にも拘らず、70%は最大限努力し、多くの成果を出した結果の評価である。よしんば70/100が平均的な評価値であるとしたとしても、教育・研究や国際的な学術活動で成果が上がれば、80~100/100に評価されるケースがあり得るのか、そしてどのような条件が満たされれば、そのような評価になるのか、その基準を明確に示す必要がある。評価をする以上は当然のことと思われる。一方では、数年間にfirst authorとして1編の論文すら出さない教員でも、同じ70%である。これは「成績率」(評価)と名打つ以上如何にもまずい。また、大学〔研究科・学部〕の管理組織の役職につくと途端にそれだけで(?)評価が80%に上がる。研究・教育の点では成果が下がったとしてでもある。これでは大学が教育・研究重視よりも管理重視と受け取られても致し方ない。ある大学では普通の業績を挙げた場合が100%であり、特に成果を挙げた教員の評価は105%とか110%となると聞いた。これは納得できる話である。これを単に評価の基準値のとり方の違いだとか、給料の問題と捉えると大間違いで、本質を見失う。特に若手教員にとって研究・教育面での努力が正しく評価されるということが、大きな励みになり、更なる飛躍に繋がることを考えると、評価の基準を明らかにし、その結果にて何がしかの説明が必要である。さもなくば、管理が上位で、研究・教育が下位との考えを肯定するようなものである。京都大学が独立法人機関となり、これまで以上に大学のカラーを強く打ち出し、社会における責任と貢献が求められる中で、教育・研究を重視し、その目標に向かって京都大学で働く全ての皆さんが、お互いの努力や貢献を正しく評価合い、伸び伸びと活動できる環境をうくることが何にもまして大切と思われる。

9年間の学生生活を含めて、44年もの長きにわたり京都大学に在籍し、多くの学生や教職員の方々と親しく教育研究生活を送ることができた幸せは言うまでもない。3月末日の定年を4ヵ月後に控えた、昨年11月に中国の工学系では5指に入るある大学から、京都大学定年後5年ほど奉職し、将来を見据えた先端科学を目指した研究所の設立と若手教授の指導に当たって欲しいとの申し出を受けた。兎も角一度大学を見て欲しいとの当地の副学長からの要請で、1月に入り短期間訪問することにした。担当した大学事務局の人事部長はれっきとした助教授の肩書きを持ち、学術的な背景を含めて、その人物の赴任時の条件を設定する。人事事務担当者の多くが教員出身者であった。また、中国では学術誌や国際会議への論文投稿がポイント制になっており、多くの優れた論文を数多く書くと、ポイントが上がり、給料が飛躍的に上がるという。ベテラン教授の給料よりも多くなる場合が屡あるという話をそのとき聞いた。能力のある若い優れた研究者は請いにencourageされる。何となく、管理よりも研究重視の姿勢が見えるようである。

日本の国公立大学が法人化され、企業からの受託研究が増えている。こうした中で、大学は企業との契約の中で、その成果に対して100%の工業所有権を主張している。企業は金を出し、その成果に工業所有権を主張できない。そんな理不尽が企業に歓迎されているとは考えられない。事実、何社かの企業と共同して公的機関の公募研究に応募・採択されると、国機関との契約書の中では研究成果や工業所有権は関係する連携研究機関の共有となる。具体的に研究計画を実行する場合、大学での経理環境を勘案し、大学に代わって煩雑な経理事務や成果報告書の作成を企業が行う場合が殆どである。企業は大学研究者への便宜を図り、大学と国機関との直接契約でなく、企業からの委託研究という形を申し出る場合が多い。しかし、この受託研究契約時に、大学が100%の工業所有権を主張すると、親元の国機関との契約時の約束事と整合しない。これがネックになって契約が3月半ばになっても纏まらない。最後は大学に押し切られて企業が妥協する。研究者にとっては、工業所有権も大切であるが、それよりも研究成果を挙げることに喜びを感じる場合が多い。些細な事で何時までも、しかも事情の説明がなく、一向に契約が進まず、従って折角獲得した研究費が年度末まで使えない。成果も期間内に挙げられない。実に馬鹿げた話である。また、次はある企業から聞いた話である。大学との共同研究にはある限界があり、それ以上踏み込んだ共同研究はできないという。大学がもう少し柔軟性を持ち、企業と利益を共有する姿勢があれば、もっと多くの企業との連携研究が生まれ、大きな成果に繋がるのに違いないと感じているのは私一人ではないであろう。これは管理が研究を阻害している典型的な例である。

大学が独立法人化され、個性溢れ、活気に満ちた、そして社会に役立つ研究、教育、技術開発機関として、真に世界に羽ぱたいて存続するためには、外形や組織形態を整えるだけでなく、中身の改善、そこに働く者の意識を変える必要があるのではないか。

この工学広報への寄稿を依頼された時、何を書こうかと随分迷った。定年で退職する人間として、在職中の素晴らしい想い出や、学生たちと一緒に苦労して得た成果や新たな発見、そして学問的に興奮したこと、心を打たれ感激した想い出等々、数数えられない程の忘れがたい出来事が40年近くの生活の一部として脳裏に凝縮されているのは、万人共通であろう。定年の証に、やや苦言に似た感想を書くのは、大変心が痛む思いであったが、法人化され、新たな形で踏み出した京都大学の今後の益々の発展と繁栄を願い、近い将来京都大学を担う若手研究者や教育者が自由闊達に活動できる環境づくりに些かでも役に立てばという思いから、在職中に感じたことを敢えて書かせて頂いた。思い違いの部分もあろうかと思いますが、ご容赦ください。

最後に、在職中にお世話になった多くの恩師、先輩諸先生、同僚を始めとする教職員・事務系職員の方々、そして研究に於いて共に苦労ど喜びを分かち合った多くの学生、院生の皆さんに心からの謝意を表すると共に、京都大学の益々の発展を祈り、筆を置かせて頂くことにする。

(名誉教授 元原子核工学専攻)