工学部ならびに工学研究科卒業生の出口保証

工学研究科長・工学部長 大嶌 幸一郎

大嶌 幸一郎最近産業界の方々から新入社員のレベルの低下に対する不満を聞くことが多くなった。新人採用者の資質に関するあるアンケート結果によれば、学士の資質について60%にあたる企業の方が知識・思考・行動ともに10年前と比較して低下していると答えている。修士は45%、そして博士については15%の企業の方々が資質の低下を感じるということである。そこで学士、修士、博士に対する大学側の育成目標の明確化と思考力の養成、さらには出口保証の要望が寄せられているのである。

教育の問題は大学教育だけの問題ではない。「社会総がかりで教育再生を」というスローガンのもと教育再生会議で議論され、いくつもの提言がなされていることは皆様もよくご存知のことかと思う。平成19年12月25日に出された教育再生会議第三次報告の中から、“大学・大学院の抜本的な改革~世界トップレベルの大学・大学院を作る”に関する提言を紹介すると、(1)大学・大学院教育の充実と成績評価の厳格化により卒業者の質を担保する。(2)国立大学法人は、学部の壁を破り、学長のリーダーシップによる徹底したマネジメント改革を自ら進める。(3)「国際化」「地域再生」に貢献する大学を目指す。(4)大学・大学院を適正に評価するとともに高等教育への投資を充実させる。という4項目である。各項目についての詳しいことは、教育再生会議HP(http://www.kyouiku-saisei.go.jp/)で公表されているので興味があれば見ていただければ幸いである。教育については誰でも語れるといわれるぐらいで、誰もが一家言をもっている。100人寄れば100人とも意見が異なる。特に教育に携わる者として各人ひとりひとりがこれらの項目について真剣に考えることは重要であろう。

教育再生会議とは別に、経済財政改革の基本方針2007の中においても産学双方向の対話「産学人材育成パートナーシップ」の推進が唱えられている。日本経団連、経済同好会、国立大学協会、公立大学協会、私立大学協会、の各会長あるいは副会長からなる全体会議がもたれている。そしてその下に機械、化学、材料、資源、情報処理、電気・電子、原子力、経営・管理人材という8つの分科会が開かれ、(1)社会で想定される活躍の場とそのために求められる人材像、(2)人材を育成するために必要な取組み及び産学の役割分担と協力関係、(3)大学界、産業界が協力して実施していくべき取組み、(4)産業界として果たすべき役割、(5)大学界として果たす役割についての議論が現在も引き続き行われている。

さらに最近高学歴ワーキングプア問題となりつつあるポスドクの就職難にからんで、博士人材の育成についても経団連から「イノベーション創出を担う理工系博士の育成と活用を目指して」という提言が平成19年3月に出され、その中で、博士には特定分野に関する深い専門性に加え、幅広い知識や課題発見力をもつ、いわば「一芸に秀で多芸に通じる」総合力が求められている。同時に社会のニーズの変化に柔軟に対応したフロントランナー型の研究テーマの設定・遂行ができる能力も期待されている。

こうした背景を踏まえ、先に触れた学生の出口保証に話をもどす。産業界が新人採用時に重視している能力は、社会人基礎力、すなわちコミュニケーション能力、行動力・実行力、積極性、外向性である。これらの能力が10年前と比較して低下しているというのが企業サイドの分析である。少し言葉が乱暴かもしれないが大学の製品は卒業生であり、この卒業生の資質を企業の要求とどうマッチさせるかが今大学に問われている。学部卒業生のほぼ90%が修士課程に進学する京都大学工学部の現状から、以下修士卒と博士卒の学生に絞って話を進める。

修士卒の学生について企業側が指摘している問題点は、(1)基礎学力の低下と(2)課題設定力、解決力、応用能力の低下の2点である。そこでまず修士卒学生の基礎学力の低下についてどうすればよいかについて考えてみたい。日本の大学での研究の主力が修士課程の学生であるのに対し、米国では大学における研究を支えているのは博士課程の学生とPD(ポストドクター、博士研究員)であり、その中でも特にPD が中心となる。日本の大学院では、これまで実験・研究を通して教育するというオン・ザ・リサーチトレーニング型の教育が行われており、この型がうまく機能してきた。ところが、最近あまりうまく機能しなくなったのではないかということがよく問題にされる。これに対して米国型、すなわち講義や演習を中心に修士課程学生を教育し、研究は博士課程学生とPD とで行うという方式を取り入れるのがよいのだろうか。PD の就職が難しい日本の現状から見て米国型に移行することは困難であろう。また、博士課程の定員を充足させることが難しいことからも、移行すれば大学での研究のレベルを維持することができなくなる。さらに国際的競争に耐える研究が難しくなる。次に(2)の課題設定力、解決力、応用能力の低下については、オン・ザ・リサーチトレーニングの強化なしにその解決は不可能である。こう考えると、これら2つの問題点を同時に解決するためには、従来型のオン・ザ・リサーチトレーニング型の教育の見直しと一層の充実という回答しかないように思われる。それには教員と学生、学生と学生のコミュニケーションをいかにうまくとるかが重要なポイントである。パソコンのひとり遊びで育ってきた今の学生の中にはコミュニケーション能力の欠けるものが増えている。これらの学生を含め、すべての学生ひとりひとりの人間力をどうすれば向上させることができるのか、この課題に立ち向かう必要がある。

次に博士卒の問題点は博士卒の学生の付加価値(専門能力と幅広い知識、ゼロからの課題設定能力、解決力)が明確でないというものである。これに対する回答も簡単ではない。企業側の博士卒の学生に対する待遇が悪いとか、企業がうまく能力を引き出せていないのではないかという我々大学側の反論もあるが、大学側でも真剣に考えなければならない問題である。

今ほど工学部・工学研究科が必要とされる時代はない。21世紀の大問題である環境問題は、工学部が中心的役割を担わなければ解決しない。エネルギー資源や鉱物資源のない日本においては人材に頼るところが大きい。この人材を育てるのが大学の責務である。これまで京都大学工学部ならびに工学研究科は世に多くの逸材を送り出してきた。今後工学研究科卒業生に対する社会のニーズはますます大きくなる。この社会ならびに企業の要求に応えるために我々大学人が教職員一丸となって立ち向かう必要がある。その際教員が同じ考えのもとで一律に学生の指導をしろというのではない。教育の方法論については先にも述べたように教員ひとりひとり考え方が異なる。この考え方を無理にまとめて一本化することは京都大学にはふさわしくない。そこで、今我々教職員にできることはひとりひとりが学生としっかり向き合い、コミュニケーションを密にし、真の知識とは何か、人間力とは何か等、自分の信じるところをしっかりと伝えることである。先生方が、本来の使命である教育・研究に没頭していただけるよう、少しでも先生方の負担を減らすことが私の仕事だと考えている。

(教授・材料化学専攻)