「大変でしょうが、後をよろしく」

森澤 眞輔

森澤 眞輔昭和40年に工学部衛生工学科に入学以来、私は46年間を京都大学と共にありました。学生として8年間、残り38年を教員として、人生の過半を京都大学と過ごした、いわゆる「生え抜き」組です。しかし最近では、この響きの良い言葉は死語に近くなり、しばしば「純粋培養」組と呼ばれたりします。充実した時間をすごさせて戴きましたことを心から感謝申し上げます。

私の学年は、学部4年の卒業研究が追い込みに入った頃に学園紛争に遭遇し、時計台の周辺に催涙ガス弾が転がっているのを経験しました。学園紛争の前後で大きく変わったもの、その一つは教官と学生との関係だったように思われます。教授と助教授、助手との関係も大きく変わったと想像されますが、その変化を実感する世代ではありませんでした。教養部から学部への「仮進学」制度が廃止され、110分授業が90分授業に、また週1回講義の専門科目の単位は通年2単位から半年2単位に変わりました。必修科目の数が大幅に減少し、学生のカリキュラム構成の自由度が高まりました。しかし、このような大学の教育制度やシステムの変化が、「紛争」だけでもたされた訳ではないと思います。

大学を巡る制度面での改革が、ここ10年程度の間に、大規模に行われました。大学院重点化、学部再編、京都大学の法人化、法人化の後に開始された中期目標・中期計画のしくみの導入、学校教育法の改正等が相次ぎました。21世紀初頭に行われたこのような高等教育政策の変換は、いずれ歴史的に研究・評価されるだろうと思います。わが国の大学政策も、長く続いた「護送船団方式」から「提案-採択方式」に変更され、昨今は教育現場の実情にそぐわない、短期の競争型教育プロジェクト資金に頼らざるを得ない状況に覆われつつあります。これらの変革はいずれも、大学人の発意に基づいて行われたものではありません。内的発意に基づいて大学が改革された歴史的先例があったのか、私には不明ですが、大学人による提案の持続的発信無くして、この状況は改善されそうにありません。

最近の運営費交付金の研究室への配分額は、そんなに遠くない昔の国立大学校費の配分額に比較して相当に減額されており、その意味は相当に深刻です。科学研究費補助金等の外部資金がなくても、当時は研究内容を調整することにより、教育・研究を継続することは可能でした。萌芽的な基礎研究が教員の努力により維持されていました。しかし、かろうじて研究の多様性の維持に貢献していた、僅かな余裕でさえ剥ぎ取られた最近では、外部資金なくして研究を継続することは実質的に不可能であり、その影響は基本的な教育レベルの維持にも及びつつあります。実験系の研究室にとって、分析用機器等の経費の高騰が状況の悪化を加速しています。

このままでは、教育・研究のレベルではなく、財務基盤の強弱が大学の生き残りや国際的競争の勝敗を決定しそうです。そこに完全な解が存在するか確かではありませんが、情報を共有することにより大学における経費の使い方を吟味し、戦略的に事態に対処する必要があります。参考になるのはやはり外国の大学や国際的競争に曝され社会の変化に敏感に対応している産業界の経験であろうと思われます。ただ、闇雲に産業界との表面的な連携を深めるのではなく、産業界の行動を規定する根底にある情勢の判断や意思決定、対応策のデザインの在り方を学び、大学に相応しい方策を組み上げる必要があります。学生が在籍する年数を想えば明らかなように、教育の場における思考のタイムスパンは、産業界に比較すると遥かに長くとる必要があります。法人化後6年を経、第2期中期目標・中期計画の期が始まろうとしていますが、多くの試みが今は尚、試行錯誤の状況にあります。自ら目標と手順を定め、情報を共有し、進路を見定めて実施に移す段階にあります。

思えば、大学変革の渦中に定年を迎えられた先輩の多くが、種々の思いを込めて「良い時に退職できる。大変でしょうが、後はよろしく」と、退職されました。私は、退職を数年後に控えた頃になって、組織としての教育・研究の在り方について考える機会を得ました。わが国の教育・研究を取り巻く環境が大きく変化しており、変化の方向を楽観できないことを思うと、採るべき対応を論理的に研究する必要があります。状況の変化に目をつぶることによって行き着く先は滅びに至る途のように思われます。大変でしょうが、後をよろしくお願い申し上げます。

(名誉教授 元都市環境工学専攻)