ガラスの心

大関 真之

大関助教ガラスの心、というとネガティヴなイメージがつきまとう。もろいという印象のためだ。しかしそのガラスは、液体の粘性が非常に高くなった状態であるといわれるとどうだろう。実は粘り強く流れに抗っているたくましいイメージが出てくるではないか。 こんな書き出しから私のこれまでとこれからをしばし紹介させていただきたい。 

工学部広報委員会からこの記事の執筆依頼を頂いたのは、所属する日本物理学会より若手奨励賞にちょうど内定した喜びの中にいた。そしてその賞の対象であった研究を更に深めようと、イタリアはローマ大学で在外研究を行っていた頃であった。こう書くと非常に楽しい経験をしているように思われるかもしれないが、そうではなかった。昨年の4月から長期滞在の許可をいただいて、日本とは全く異なる文化圏での国での生活をしながら、研究活動を行っている最中は、それこそ未だもろいガラスの心の持ち主であったため、心が弱っていったように思う。文化の違い、価値観の違い、一番困ったのは事務処理の速さの違い。とにかく我慢する事の連続であった。 

私は学部以来、修士、博士課程ずっと東京工業大学に在籍していた。日本ではよくある例ではあるが、なんともつまらない経歴である。面白くもないので、何をしてきたか少し研究内容に突っ込んだ話をしてみよう。学部の卒業研究以来、スピングラスと呼ばれる磁性体の理論的研究に従事してきた。磁性体は、磁気モーメントの向きが揃った強磁性状態と、ばらばらに変動し続ける常磁性状態を取る事が知られている。スピングラスとは、一部の合金におこる、通常の磁性体とは異なる状態をもつ物質を指す。合金内の不純物効果により磁気モーメントの向きが定まらない競合状態が生じる。その結果、低温でばらばらの方向をむいたまま安定化してしまう、時間的にほとんど変動しない凍結状態というガラスのような状態を持つ事からついた名前である。 関連図書を開いた時の難しいという第一印象のせいか、新参者の思考までもガラスのように固めてしまうのがこの分野の難点である。思い起こすと、どうにかこうにか、新しい事実を見出したのは博士課程2年次の終盤、まさにギリギリであった。 その事実とは、スピングラス物質における状態変化(相転移現象)がどこで起こるか、これを理論的に正確に予言できるということだ。残念な事に、それ自体に興味を持つ人は、もはや多くはいなかった。しかしそれで何故重要な貢献であったかというと、そのスピングラスに関する理論が全く異なる分野“量子情報通信”にまで波及して、重要な問題を解析的に解く事が出来るようになった事が挙げられる。世の中何があるかわからない。 

その後、京都大学へのお話しをいただき、私の経歴が少し揺れ動いた。京都で1年という短い期間のあと、さらに10 ヶ月程度ローマ大学での長期滞在をしながらの研究を行う機会を得て、そしてちょうど原稿の締め切り寸前に、京都に戻ってきたところである。自分の経歴をつまらないと嘆いていたところを誰かが見ていたのか、と思うほどに劇的な変化である。

写真小色々な知識と経験を積んできて、今までの自分とは違う要素が多分に混ざってきたように思う。これから京都大学で再び教育に研究に集中して励む毎日を過ごせると思うと、イタリアの生活の反動からかもしれないが、非常に楽しみである。そして今後出来上がる新しい自分は、もろいガラスだろうか、粘り強いガラスであろうかを考えるに、不純物かもしれないが、自分の中に様々な体験を混ぜ合わせた事で、きっとたくましく生きる後者であることを期待している。

(助教・システム科学専攻)

写真1
「滞在先のローマ大学(通称:ラ・サピエンツァ)。西ヨーロッパ最大の大学であり、イタリアで歴史ある大学のひとつ。ここの物理学科の一員として所属していた。」

 写真2
「共同研究者たちと記念写真。左からFederico Ricci-Tersenghi 氏、 Giorgio Parisi 氏、筆者、Ulisse Ferrari 氏。特にGiorgio Parisi 氏はスピングラス研究で最も影響力のある研究者の一人である。」