No.62 (2014.10) / 随想 / 20世紀の技術革新、21世紀の技術革新

20世紀の技術革新、21世紀の技術革新

八尾 健

八尾先生画像ものづくり日本の復活が叫ばれている。イノベーションという言葉の下に、官学民一体となった技術革新が推進されている。しかし、実際に成果が上がっているのであろうか。何か少しもどかしさを感じ、そして言葉だけが先走った空回りを感じるのは、筆者だけであろうか。20世紀、日本はこうやって高度成長を成し遂げ、経済大国になったではないか。このやり方こそが成功への道である。そう思う人は多い。しかし果たしてそれでいいのであろうか。20世紀と21世紀では、人が、環境が、時代が、全てが違っているではないか。成功体験は人を酔わせる。成功の理由を解析して、未来に生かそうとする人がいる。しかし、成功には必ず偶然が作用している。成功に至るいくつもの積み重なった事象の中に、人知ではどうしようもない事象が必ず入り込んでいる。それが偶然うまくいかないと、成功には至らない。すべての成功には、偶然が必ず含まれる。筆者は、「成功は偶然、失敗は必然」と断言している。成功に学んではいけない、失敗にこそ学ぶべきである。1990年代にNHKが「電子立国日本の自叙伝」という自画自賛の番組をやった。私はこれを見て、非常にまずいと思った。実際、心配が現実のものとなった。

さて、本題に入ろう。紙面に限りがあるので、かなり飛ばした記述になるが、ご了承をいただきたい。20世紀と21世紀はどこが違うのか。20世紀と21世紀を比較すると、次のようになるであろう。

20世紀21世紀
技術 先導者あり 先導者なし
技術革新のステップ

技術のファッション化

市場 富裕層 非富裕層

20世紀には、アメリカという日本の前を走っている技術大国があった。日本はただひたすらにアメリカの後を追っているだけで良かった。当時、通産省の主導で企業が連合を組み、ひたすらIBMを追った所謂コンピュータ戦争が、懐かしく思い出される。しかし現在、技術を先導しているところはどこにもない。ないと言えないまでも、20世紀のように突出しているところはない。即ち、先導者がいない。さらに、20世紀と21世紀では、技術革新のステップが異なる。20世紀の技術革新には、コンピュータの発明に象徴されるように、今までにない物が生まれ、世の中が大きく変わってしまうような、大きさがあった。21世紀はどうであろうか。スポーツにたとえて言えば、20世紀では、0.1秒刻みであった記録が、21世紀では、0.01秒刻みになっているように、技術革新のステップが小さくなっている。スポーツも科学技術も限界に近づきつつある。21世紀では、新しいと言っても、以前と大きくは違わない。中には、技術の組み合わせが単に変わっているだけの場合もある。筆者はこれを、「技術のファッション化」と名付けている。ファッションの世界では、同様のものが、目先を変えて繰り返して現れるからである。さらにもう一つ、市場が大きく異なる。20世紀は、日本よりも富裕な欧米先進国が取引先であった。少々値段が高くても、新しい機能、高い性能を重視して購入した。21世紀は、まず日本が富裕になったこともある。また、発展途上国との取引が多くなった。相対的に、日本よりも富裕でないところと取引をすることになった。そこでは価格が重視される。機能、性能は、その次となる。20世紀とは大きく異なるのである。

21世紀は、20世紀と同じことをしていてはいけないことは明らかである。では、21世紀の技術革新の戦略は、如何にあるべきか。これを以下に示す。

20世紀21世紀
技術革新の推進

プロジェクト研究

一極集中

個別研究

多角化、分散投資

技術の内容 イノベーション オールドサイエンス
視点 方法 コンセプト

20世紀は先導者がいるので、主導する技術が分かっていた。しかし21世紀は、主導する技術が何になるかわからない。先導者がいないのであるから、目標がわからない。このようなときに、プロジェクト研究をしてはいけない。思い込みで投資を集中してはいけない。目標を勝手に定めてオールジャパンなんてやってはいけない。目標としたところが当たればいいが、当たらなければ被害甚大となる。21世紀は、研究者個々の多様な発想を重視し、研究を多角化して分散投資を行い、世界の情勢を注意深く観察しながら、進めていくべきである。また、コストのかかるイノベーションをやってはいけない。技術革新の幅が小さいので、すでにあるものと大きな違いが出ない。XPまでは買い換えたが、それ以後はXPで十分ということに象徴される。しかも購買層が裕福ではなくなっている。そのため、開発コストを製品価格で吸収することが困難になる。技術開発に大きな投資をしても、20世紀のようなゲインはないのである。イノベーションをすることなく、既成の技術を活用すればよい。当然、コストが下がる。これを筆者は「オールドサイエンス」と言っている。「オールドサイエンス」というと何か古いイメージが出てくるが、そうではなく、既成の科学という意味で使っている。既成の科学なら「エスタブリッシュトサイエンス」ではないかということもあるが、長くて語呂が悪いので、あえて使わないことにした。「オールドサイエンス」でコストを下げながら製品開発をすれば、競争に打ち勝つことができる。さらに、技術革新の視点は、方法ではなくコンセプトに置かなければならない。すでに成熟した21世紀の科学技術においては、高性能な機器が完備されており、やろうと思った研究は何でもできる。どうするかではなく、何をするかが重要なのである。

1973年の第1次石油ショックを予見し、また現在普通名詞にまでなった「団塊の世代」という言葉を生み出した堺屋太一氏は、1985年に「知価革命」題する著書1)を世に送り出した。かなりの大作で、内容についてはとても一言では済まされないものではあるが、その中で氏は、近未来において、近代を特徴づける産業革命に代表される工業化社会が終わり、高技術中世ともいえる知価社会が始まると論じている。工業化社会において「よいこと」と考えられてきた諸概念、経済成長、生産性の向上、技術の進歩、勤勉等、いずれも「人々により多くの物財消費を可能にすること」、これらに代わり、人々は、資源、エネルギー、農産物をより多く消費することを望まなくなり、時間と知恵の値打ち、これを氏は「知価」と名付けたのであるが、この「知価」を多く消費することを要求するようになるであろう。そしてこれは、西ローマ帝国が滅んで古代から中世に時代が変わり、ルネサンスおよび宗教改革を経て中世が近世に変わり、市民革命、産業革命により近世が近代に変わりそれが現代に引き継がれているという歴史観の上にたつと、その近代・現代が終わって、高技術中世ともいえる知価社会が始まる大転換期にあると論じた。これが著されてからほぼ30年、紆余曲折を経ながらも、科学の限界が近づき、世の中の価値観が、実際に、物質的豊かさから精神的豊かさへ、安全・安心へ着実にシフトしてきているところを見ることができる。そのとき、科学技術はどうなるのであろうか。人々は、個々の科学技術の原理を知ることなく、全くのブラックボックスとしながら、その恩恵を享受するであろう。そして、ちょうど中世のギルドのような、その科学的詳細を独占的に知る集団が形成され、その中で科学技術が守り伝えられるようになるではないだろうか。コンピュータの分野では、すでにその兆候があるではないか。時代はその方向に動いているようである。20世紀の技術革新と21世紀の技術革新が異なっていて当然なのである。

1) 堺屋太一、「知価革命」、PHP研究所、1985年、ISBN-10: 4569516025

(名誉教授、元エネルギー科学研究科エネルギー基礎科学専攻)

東一条の道標東一条の道標。教養部の授業が終わった後、いつもここで市電を待った。謎めいた道標を見ながら、なかなか来ない市電を待った。何が書いてあるのか全く読めなかった。ところが、ある時を境に、すべてが読めるようになった。脳が文字を認識したのであろう。しかし読めなかった時の方が、画像としては、正確に捉えていたのではないか。分かるということは、脳が都合よく修正しているということであろうか。