No.65 (2016.4) / 巻頭言 / 京都大学の工学

京都大学の工学

工学研究科長・工学部長 北村 隆行

北村先生写真国立大学の活動が、国の懐具合と深い関連を持つことは避けられません。京都大学工学部・工学研究科の財務状態の詳細を持ち出すまでもなく、我々が厳しさを増す傾向を肌身に感じ始めて久しくなっています。懐具合は定員削減による〈ひと〉の問題や電気代のような定常的な運営費用〈もの・かね〉に直接通じ、教育・研究・社会貢献等の日常活動にひしひしと迫ってきています。省庁や大学本部からの警報音は止み間がないように感じられるこの頃、さらに社会の情勢とも絡み合って、研究公正、組織改編、教育国際化等々多くの懸案が陸続と大学に押し寄せている現状です。このような状況下では、つい“傾向と対策的”な判断に陥りやすいのですが、判断が難しい問題に対してこそ基本に戻って物事を考えることが大切と自戒しています。危機管理の初歩は、“危機と判断すべき基準を決めること”であるそうですが、これも同様のことを意味しています。守るべき最も大事な物事を明確にすることが、アゲンストにあるときの基本事項でしょう。

大学の本質は学術にあり、大学人が最も大切にすべきものです。大学は物事を深く考究することを目的とした人々が集まる組織です。教育や研究等は学術に関する大学人の実践活動であり、大学はその学術活動を通じて社会と繋がっています。これは当たり前のことのように思われるかもしれませんが、政策によっては、あるいは大学によっては、現代の複雑な社会からの要求を言い訳に小手先の論理に頼ってしまい、学術が疎かになっていることも稀ではありません。京都大学の独特な点は、物事の本質を見極めようと最善の努力をすることが可能であることであり、そのために逆境に強いと言われる伝統を持っていると考えています。京都大学工学部・工学研究科の基礎学理重視もこのような考え方が原点であり、その教育・研究・社会活動も高いレベルの学術から溢れ出すものです。この素晴らしい“京都大学工学部・工学研究科らしさ”を発揮してゆくためには、まず教員が学術を楽しみ、活き活きとした姿を内外に見せ、その内容を他にわかる言葉で語ることが、活動の基盤である思います(資金やポストや時間や施設や……と現実の難問はいっぱいあることは事実ですが……、「それでも」です)。

問題に直面する中での京都大学工学部・工学研究科らしさとは何でしょうか。ここでは、教育を例にして、今少し考えてみます。

教育に関する学部・研究科の眼前の具体的な課題として、国際化教育や博士課程教育があげられます。前者の中にある日本人学生への英語教育についても、学部・修士課程・博士課程によって質は異なるでしょう。また、「英語コミュニケーション能力なのか」or「専門能力の一部なのか」という英語教育の目標に関係することや、「英語の教育なのか」or「英語による教育なのか」という方法論への迷いが、すぐに湧き上がってきます。さらに判断を難しくしているのは、過去に比べて大きな学生定員と少子化の相対関係や個人の価値観の多様化を背景に、学力や勉学意欲に関する個人差が広がっている“列が長くなっている”ことです。同一学年同一学科(専攻)においても単一の考え方や方法では合理的に対処することが難しい事態に至っています。これは、その教育目標や方法にも階層的な考え方が必要であることを示唆しているように思います。もちろん、この問題は国際化教育に限ることではありません。

他の早急に議論が必要な例として、“博士課程学生を増やすこと”があります。遠い天からの声に強された数合わせの論理によるものではなく、研究科として学術の将来とそれを通じた社会との連関の根本を見据えた行動が必要です。本来、高い学術を基盤とする高等教育の真骨頂は最高学位における教育(博士課程教育)にあるのが自然です。とくに、学術を表看板に据える京都大学では尚更であると思います。技術に対する学術の価値がいっそう高まるとともにその在り方が変わりつつある今世紀においては、産業界の中にある学術性を高めることが国力を高めることに直結します。大学界における研究者・教育者としての後継者養成も重要ではありますが、現代の博士課程はもっと大きな社会的・学術的意義を持っていると考えるのが妥当でしょう。社会・産業は多彩であり、学術を基盤に社会を支えてゆく人材に要求されるものは、以前より格段に多様になっています。学術は豊かな内容を有しており、各教員・学生個人によって異なる発展性を許容する拡がりがあることを勘案すると、非画一的な博士学位の基準が要請されているのだと思います。一方、これは博士課程の悪い“大衆化”による危険性を持っていることは否めません。誤解を恐れずに言いますと、安易に多面的な基準を設けると、博士学位のレベル低下と理解されかねない面があります。京都大学の高レベルの研究から溢れ出る知性を磨いた多様な博士課程学生を育成するシステム(目標、方法、基準など)については、両面を理解しながらの根本的議論が必要であると考えます。

多様な学生を多様な教員が指導する現在の教育制度においては唯一解など存在せず、一つの施策には必ず長所と短所が同居しています。一方、現実はひとつであり、多様な現状と将来への要求を目の前にするとき、“着眼大局着手小局”などという言葉も浮かんできます。技術と深い関係をもつ工学の視点からは、大きな自由度の中で特定の機能を引き出すための“設計”における決断との類似も見えそうです。現実に選択できる手はきわめて限られ、苦渋の決断もあるでしょうが、同じ選択でもその背景にある本質や長短を認識することが京都大学らしさなのでしょう。京都大学工学部・研究科から世に送り出す人材の育成においては、技術の基盤である知識・知恵(すなわち、工学という学術)とセンス(すなわち、工学的なものの考え方)について、高い学術的ポテンシャルに立脚した根源的な教育を行う姿勢(すなわち、難しいことを分かりやすく、易しいことを深く、教える)がその基本であると考えます。そのためには、偏見なく現教育制度の継続・変革の判断に立ち向かう勇気が必要です(維持・継続も大きな選択・決断)。

大きくて広い時の流れに浮かぶ身としては、技術の発展の在り方が大きく変わりつつあるように感じています。古来より、技術は、失敗の経験を積むことによって知識を獲得し、改良のための工夫を重ねることによって発展した時代が長かったように思います。例えば、19 世紀や20 世紀初めには。技術的に未熟な段階で世に出された鉄道やエネルギー関連の機器が多くの事故を経験しました。しかし、その後、不具合への具体的対策を繰り返すことを経て、高い信頼性を獲得してきたという経緯があります。それ以前は、多くの技術において、さらにこのような傾向が顕著であったことでしょう。一方、現代においては、科学知識・知恵(すなわち、学術)による的確な予測に基づいて物事を設計・作製・維持する傾向が強まってきています。知識・知恵が先行し、経験を組み立ててゆくような発展形態です。これは、我々が接する機器やそのシステムは高機能化のために複雑・大規模化しており、社会が新機器システムの登場当初から高い信頼性を要求することとも対応しています。また、新たに発見された自然法則や現象が直ちに機能に結びつくことも多くなってきていることにも関連しており、自然現象・法則の探求も工学の重要な部分をなしているということです。すなわち、経験重視の技術から科学重視の技術への移行が起こってきているのです。これは、将来に向かって技術の基盤となる学理の重要性が格段に高まることを指しており、京都大学工学部・工学研究科の方向性と合致しています。とくに、明治以降また第二次世界大戦以降のように、日本は他国から技術を導入する時代が続きましたので、社会における最新技術の出現とその知識・知恵の学びを同時に行ってきた特有の発展経緯があります。この歴史は、工学を単なる自然科学から技術応用への橋渡しとしての知識・知恵と捉えるより、技術を現実のものとするための基盤的知識・知恵の体系化という現代的な視点で見ることに繋がってきたように思います。世界がscience in society やscience for society を含む「学術としての科学」を要請するようになった最近の風潮は、工学の現代的な意味を先取りしてきた日本こそが実質的発祥の地であったのではないかとまで大袈裟に考えてしまいそうになります。また、科学に基づく技術が経済性や効率性のみならず社会性や人間性にも関連することから、現代の工学世界は学術全体の中で大きな拡がりと多元的な繋がりを有しており、多くの分野を結びつける重要な位置を占めています。

学術の最前線に立つということは、未知の物事に立ち向かうための知識・知恵を開拓することに他なりません。高い学術レベルを誇る京都大学工学部・工学研究科教員は、研究においても教育においても産学連携においても、元来、フロンティアに立ち向かうのを好む集団だと理解しています。理想と現実、リスクとベネフィットの間を苦悩しつつ、道を切り開くバイタリティ溢れる京都大学工学部・工学研究科の姿が、私は大好きです。

 (教授 機械理工学専攻)