私の半世紀

井手 亜里

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 日本の地を初めて踏んだのは昭和 47 年の春、19 歳の時だった。その翌年、京都大学の学部学生となり、その後教員となってほぼ半世紀が過ぎた。その半世紀で世の中は大きく変わった。学術的なことはもちろん、世界の政治も社会情勢もどんどん変わっていった。ペルシャの美しい文化と壮大な歴史を源流として、日本のエレガントな民衆文化の中に生きた。そのこと自体、この上なく最高な個人的体験であった。
 京都大学に入学したころに聞いたこと、見たことの多くは、今でも鮮明に記憶に残っている。日本は急激な経済成長とともに、社会そのものが大きく動いていた。「日本は、技術はあるが、科学がない!」、「日本は、政治はあるが思想がない!」といった言葉は教養部(のちに総合人間学部と名称が変わった)の先生方の話として、私の記憶に残っている。このような言葉は、言い方が変わって、今でも時折聞くことがある。おそらく、日本にもっと科学を、日本にもっと思想を、と思っている京都大学「人」は多いであろう。
 私自身、多くの同級生や先生方と同様に「不満と不安」(この言葉は 京都大学出身のある日本人近代思想家の言から拝借)の日々を、半世紀近くもの間、京都の町で、京都大学の中で過ごしてきた。
 京都での生活の歴史の中で、私にとって極めて大きな変化(頭の中での爆発的破壊的な変化)が二つあった。まだ学生であった 1979 年のイラン革命と、 2011 年の福島原発ディザスターである。革命は社会や世界に対する私の思想を変え、ディザスターは日本の科学と学者に対する私の思考を変えた。この一見無関係な二つの大事件は、実は私の頭の中で深く結びついている。一番目はエネルギー資源の奪い合いに根を持つ事件であり、2 番目はエネルギー問題をゆがんだ形で解決しようとした結果の事件である。この二つの大事件はまだ終わっていない。しかし絶望してばかりはいられないので、現実と共存しながらさらに進む。
 京都の生活は静かで、学ぶための条件は全てそろっている。自然は豊かで、町としては独特な文化的エレガンスを持っている。その文化的エレガンスの影響であろうか、私は技術・工学・科学から徐々に文化・芸術・社会に傾倒していった。研究・教育活動にもこの文化・芸術への関心は大きく影響し、電気・機械工学の先端技術を用いた文化への探求は、研究室の理念となった。後半の教員生活のほとんどの時間を「芸術のための科学技術」を旗印とした活動に捧げ、持ち合わせた知識と研究資源のほとんど全てを、機械の設計製作と現場応用のために注いだ。研究室主催で「芸術のための科学技術」と銘打ったシンポジウムを積極的に開催し、その開催数は定年までに、国内・国外を合わせて 30 回を超えた。研究室になくてはならないフィロソフィーとして「最先端の科学技術を使って機械を作り、文化財を分析・研究の対象にする」「京都から日本へ、京都から世界へ発信する」という研究理念を、機会あるたびにマスメディアに流した。幸い、そのような言葉を必要としていた人は多かったし、今も多い。
 講演の場などで文化財(過去の人類が残した文化の物理的証拠)の保存の必要性を説く時、よく口にしてきたことは「文化財には三つの敵がいる。戦争と貧困、そして無知である」ということだ。友人が付け加えた。あなたが言っている文化財という言葉を、人類に置き換えても同じです、と。東日本震災以降、人類もまた、常に予測不能の自然災害や、身勝手な人災の脅威にさらされている存在であると、強く意識するようになった。
 日本も世界も目まぐるしく変わっていき、科学技術は加速度的に進歩していく。その速度は速すぎて、振り返る人も、反省する時間も少なすぎる。福島ディザスターはその象徴と言える。常に広い視野と考える習慣を持ってほしい。学生たちにも京都から、日本から飛び出して海の向こうの広い世界を知ってほしかった。また日本の先進技術を必要とする人々がいたら、世界の隅々まで届けたかった。研究室の大きな特徴の一つとして、「グローバルな研究ネットワーク構築」を目指した。研究室で蓄積したノウハウを、国外に広げ、普及に努めた。その結果として、中国、香港、韓国、マレーシア、イラン、フィリピン、オーストラリアそしてエジプトといったアジア・アフリカ方面から、イギリス、イタリア、アメリカにいたるまで、数多くの海外拠点が設置され、実用プロジェクトが実施された。共同研究の機会は定期的に設けられており、これからも基本的な方針は変わらない。
 定年退職に間に合うような研究室の展開があった。デジタル技術は今の文化文明の情報を将来に残すという常識もさることながら、過去の文化文明の探求ツールとしても、活躍できる。デジタル技術を使った探求ツールで昔の人々の知恵を授かり、「今」の情報を今以上に更新した上で未来の人々のため伝承することができる。研究室で開発された機器は東日本震災に関係する被災地の何人かの真面目な研究者に利用されるようになった。「私の中でいつまでも消えない、福島ディザスターの残り火」はだれに揉み消されることもない。大きな目的を持つ小さな研究室で「災害研究に役に立つ文化財科学記録研究」が活動を開始した。何よりうれしいことである。

(名誉教授 元機械理工学専攻)

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