No.65 (2016.4) / 随想 / 原子炉安全とともに41年

原子炉安全とともに41年

杉本 純

杉本先生写真1.はじめに

昭和50年に京都大学原子核工学専攻を修了し、日本原子力研究所(原研)に就職した。原研では主に原子炉安全に関する研究や人材育成に従事して、平成23年7 月に原子核工学専攻に移籍した。この間の研究、教育・人材育成、役所出向、海外生活などの概要を記すとともに、学生へ贈る言葉を最後に述べたい。

2.日本原子力研究所での研究、人材育成

原研では、加圧水型原子炉(PWR) の冷却材喪失事故時において、緊急炉心冷却系による炉心の再冠水過程の熱水力挙動に関する研究に従事した。PWR は10m 以上の長い蒸気発生器が抵抗となるため、緊急炉心冷却系から注入された冷却水が炉心に入らないことが懸念されていた。このため、小型の実験から後には日米独3 国の国際協力研究に発展した大型の実験装置による実験を実施するとともに、解析モデルの開発を行った。一連の研究に対し、日本原子力学会論文賞を共同受賞することができた。

1979 年に米国でスリーマイル島事故、1986年には旧ソ連でチェルノブイリ事故が起きたこともあり、平成元年からはシビアアクシデントに関する研究に従事した。平成4年からは炉心損傷安全研究室長として研究を主導した。特に、事故時格納容器挙動試験、配管信頼性実証試験、照射済燃料からの核分裂生成物放出実験の三つの大きなプロジェクトを立ち上げた。研究員約15名、技術者14名、解析支援者等4 名、下請け6名などが関与する大所帯を運営した。毎年東京で国際会議を主催し、内外から約200名が参加した。四つの国際研究協力計画に参画し、必要なデータや情報を入手して研究に役立てた。欧米、アジアから研究者を7名受入れ研究指導した。国際的にも評価される成果を挙げ、日本原子力学会賞技術賞を共同受賞したが、福島原子力発電所事故の発生を防ぐことにはつながらなかったのは慚愧の念に堪えなかった。

最後の4 年間は、原子力人材育成センター長を務めた。それまでも研修所の講師や大学での講師などをよく務めた。教材を作成する過程が勉強になるし、若者に教えることが基本的に好きだった。それまでほとんど縁がなかった東南アジア諸国にしばしば出張した。産官学が協力して平成22 年11 月に設立した原子力人材育成ネットワークでは初代の事務局長を務めた。

3.科学技術庁への出向

昭和60年7月から62年7月まで、科学技術庁原子力安全調査室に安全調査官として出向した。原子力安全委員会の事務局として、安全審査や基準類の策定の補助が務めである。61年4月にチェルノブイリ事故が発生して大騒ぎとなった。ソ連の原子炉に関する情報は極めて少なかったが、国会想定質問を作成して徹夜で局長にレクした。ある議員が事前にない質問をしたので、局長の横で慌てて回答を紙に書いて凌いだこともあった。原子炉安全が専門の先生が訪問された際、「ソ連の事故は反応度事故ではないでしょうか」と当てずっぽうに聞いたら、「商用原子炉で反応度事故が起きるはずがない!」と皆の前で一喝されたのは忘れられない。

原子力安全委員会にソ連原子力発電所事故調査特別委員会が設けられ、その主担当を命ぜられた。委員会の運営、情報の収集・分析、資料の作成などに奔走した。昼食の時間が取れず、会議室まで歩きながらパンを食べたこともあった。この年の8 月にIAEAで開催された事故レビュー会議にソ連から報告があり、反応度事故だったことなど全貌が明らかになった。これを基に、9月に中間報告書を発表し、翌年5 月には最終報告書までこぎ着けた。発表前夜は関係省庁との合議のため、担当者全員一睡もせず、翌朝から夜まで続く委員会に臨み、報告書を逐一説明し、数々の質問に答え切った。皆若かったこともあったが、未曾有の大事故に際し、いわば原子力の国難に対処する使命感もあったのだと思う。

4.海外生活

日米独の国際協力研究が開始して、初めての駐在研究員として米国ロスアラモス国立研究所に1980年2月から1年間赴任した。原研で実施した実験を当研究所が開発中の解析コードで解析することが主な任務である。ある時、計算結果が物理的におかしいことに気付き、開発担当者に指摘したが、「コードは正しい」とけんもほろろだった。そこで、数万枚のコードの中身を調べて、ロジックが間違っている箇所を見つけて、改善案も含めてメモにまとめて担当者に説明した。今度は納得してくれて、それまでは東洋の小国から来た一青年くらいにしか見てなかったと思うが、私を見る目が変わり会議で発言すると賛同してもらえるようになった。地元のソフトボールチームに初の日本人として所属し、背番号1 番をもらい「サダハル・オー」と呼ばれた。外野を守り背走してフライを好捕した時や三塁を守ってゲッツーを完成した時は、ベンチに戻ると皆がハイタッチをしてくれる。まるで大リーガーになったような気分だった。

2004年3月から3年間、ウィーン事務所長として赴任した。国際原子力機関(IAEA) との連絡調整が主な任務である。2005年10月に原研は核燃料サイクル機構と統合して現在の日本原子力研究開発機構が発足したが、10月の統合記念式典のため、エルバラダイIAEA 事務局長から統合を祝うビデオメッセージを入手するよう命ぜられた。何度も依頼したが、「事務次長なら可能」というばかりで埒があかない。ある時、日本大使主催のパーティーに出席したら、当のエルバラダイ氏も出席していた。面識は無かったが、事務局長の前に進み出て直接お願いした。最後に「分かった」と快諾してくれた。ビデオが届いた数日後、エルバラダイ氏とIAEA のノーベル平和賞受賞のニュースが流れた。この後だと超多忙のためビデオは絶望だったので間一髪であった。記念式典で外国からのメッセージの最初にエルバラダイ氏が登場すると、会場からと大きなどよめきが起きたと後から聞いた。2006年10月には、調査の一環としてチェルノブイリを訪問した。4号機を覆う巨大な石棺を展示建物の窓ガラス越しに見て、これが世界を震撼せしめたあのチェルノブイリかとしばし感じ入ったのを覚えている。

日本人の間では、大使館、IAEA、日本人学校、日系企業、日本食レストランなど約12 チームで競うソフトボール大会が最大のイベントである。日曜朝からのトーナメントでは、応援する家族や友人、日本人学校生徒も加わり、300名近くが公園の一角に集まり、昼食時は芝生の上で弁当を広げたり、鍋でカレーを温めたりの大賑わい。私が所属していたGOT( グレートおじさんチーム)は、名誉4番の私も含めてクリーンアップ全員が50代だった2005年に奇跡の優勝を遂げた。2006年には国際ソフトボール大会が始まり、筆者が監督となって「チームジャパン」を結成した。リーグ戦では8 チーム中5 位だったが、決勝トーナメントでは並み居る強豪チームを倒して見事初代チャンピオンに輝き、監督が宙に3 度舞う感激の胴上げとなった。

5.京大での研究、教育

平成23年7月に京都大学に移籍後は、福島原子力発電所事故で得られた知見に基づき、溶融デブリと圧力容器壁の間の気液対向流制限や溶融炉心コンクリート反応関連のシビアアクシデント研究を再開した。予算規模は原研時代に比べてゼロが2 つ位減ったが、学生と一緒に自由に楽しく出来たのは嬉しかった。移籍直後は、国内外のシンポジウムで福島原子力発電所事故関連の講演を数多く引き受けた。また、学会におけるシビアアクシデント関連の検討へも積極的に参加し、国際会議でも研究成果の発表や基調講演なども積極的に引き受けた。特に、2012 ~ 2014 年まで、原子放射線の影響に関する国連科学委員会による福島事故関連の国連総会報告書作成のための専門家グループの技術アドバイザーを務めた。 教育・人材育成関係では、原子炉安全、技術倫理関係の科目を担当した。我が国の16大学が参加する国際原子力人材育成大学連合ネットでは、京大の担当者としてアジア諸国での講師を務めるとともに、アジアやIAEAへの派遣学生の選抜・調整を担当した。EUとの学生交流プログラムでも、学生の受入や派遣の選抜・調整を担当した。2013 年から開始した産官学による日越原子力研究・人材育成フォーラムでは、組織委員会副議長を務めている。2014 年からは、中国ハルビン工程大学へ京大の学生を毎年4 名派遣し、原子力シンポジウム及び雪像コンテストへの参加の調整に当たった。京大の学生は基本的に優秀なので、いずれにおいても好評を得ているのが嬉しくも誇らしかった。 平成24 年度に専攻長を務めた時は、大した成果は残せなかったが、長らく休止していたソフトボール大会を復活して、夕方の懇親会も通じて、2 回生以上の学生、院生、教官の交流に役立てたのではと少々自負している。27 年度で第4 回目を迎えたが、年々大会が盛り上がっているのは嬉しい限りである。

6.おわりに

原子炉安全研究や教育・人材育成を中心とした41年間は、多くの場合は失敗と試行錯誤の連続だった。それでもめげずに、少しでも良いものを目指してチームメンバーと一緒に創意工夫と努力を継続して来た。内外に豊富な人的ネットワークを築けたのも仕事に大きく役立った。学生を含む若手には、大きな目標を掲げるとともに、自分の頭で創意工夫し、一歩一歩努力して確実な成果を挙げること、内外に豊富な人的ネットワークを築くこと、会合等では積極的に発言することが大事であることを強調したい。また最後に、長い間、ご支援、ご協力、ご指導下さった諸先輩、同僚の方々、楽しい研究や遊びの時を与えたくれた学生達に心より感謝致します。

(定年退職教授 元原子力工学専攻)