“大学”のシステムも変わりゆく中で

副研究科長 関 修平

No.74_工学広報_ページ_09_画像_0001.jpg 新型コロナウイルス:SARS-CoV-2にかかわる状況は,時々刻々と変化しつつ,私たちの社会生活や教育・研究活動にも暗い影を落としつつ,劇的な変化を促しつつあります。この1年足らず,否,数か月という短期間に,極めて大きな社会の変質につながる重要な要請や決定が次々となされる一方で,その要請や決定の合理性についての正確な評価にはほど遠いことを,“極めて重要”とされる多くの要請や決定そのものが次々と変更されていくことからも,すでにお気づきのことと思います。果たしてこれらの要請・決定,はたまたその変更が正しかったのか,そうでないのか,おそらくSARS-CoV-2の影響が落ち着きを見せた暁に,改めて歴史の検証として議論されることになるのでしょう。

 このように考えれば,改めて言うまでもなく,SARS-CoV-2へ罹患してしまうこと,またそれに気づかず意図せずして広げてしまうことは,現段階においても“不幸にして”と形容するほかないのではないでしょうか。誰の身にも起こり得ること,確実と思える・主張されるさまざまな対処法が,悉く無力に近いことが明らかとなりつつある以上,現在私たちがとるべき立場は,柔軟かつ寛容であることのように思います。

 振り返ってみれば,ほんの1年前までは,海外で見分を広げることを誰もが求め,また私たちもこれを積極的に勧奨していました。社会ではコミュニケーションスキルの重要性が声高に叫ばれ,1対1・1対多での対人説得力が何よりも重要と,私たちの組織の中だけでなく,研究上も,はたまた学生の就職活動でも,強く主張され,これに疑いを抱くことはタブーとされていました。具体例を挙げれば,例えば香港では,ほんの1年前はマスクをして街を歩くことが犯罪と看做されていたにも関わらず,現在では“マスクをしないこと”が看過されない状況に変質しています。1年先に,現在,あたかも当然と思われているさまざまな行動規範が,すべて反故にされていないなど,だれが信じることができましょう。

 私たちの社会も,教育も,研究も,すべて誰かに伝えることによって成立しています。深淵な宇宙や極微細な物質世界にかかわる教育や研究でさえ,それに対する好奇心の結果見出された真理を,社会へ・後生へ伝えることによってのみ,教育や研究の証として存在しえます。すべての社会的接点を絶つことが,SARS-CoV-2に対する唯一絶対に確かな対処法だとするならば,そのような世界はもはや人間世界ではないのでしょう。さまざまに規範によって規定された状況で,私たちが活動してゆく意欲を極端に削がない・維持したいと願う心に違いはないことと思います。そして私たち個人が,またその価値観がみな異なるように,自分自身が活動し,生きていくうえで,守らなければいけないもの・守らなければいけない社会的・自制的行動規範もそれぞれ全く同じにはなり得ないのではないでしょうか。

 ことSARS-CoV-2については,多くの意見が表明されつつも「正解などどこにもないこと」,そして最も重要なのは,すべての意見・考え方・規範が,考える人それぞれの善意によって表明されていることを等しく認めることこそが,最も重要ではないかと思うのです。“お願い”から“要請”へ,また“要請”から“規則”へ,日々自由度を失っていくのは大変残念なことではありますが,これもまた善意から表明されるもの。それを受けた個人の行動も,本質的にはそれぞれが良かれと思った結果。批判と検証は重要ですが,今はその時ではないのでしょう(このように書いているうちにも,少しずつ正解に近い解が見えてくるのかもしれませんが)。そのうえで私たちの所属する組織が「大学」であるということ,自然科学・社会科学を追求するものとして,さまざまな思想・信条・通念・教義から自由であることをその根本としていること,ここに立ち戻れば,SARS-CoV-2への対処,その罹患,はたまたその経緯も含め,すべての状況に対する偏見からも自由でなくてはならないと思います。(さまざまな対処に対する)柔軟さ・(さまざまな考え方に対する)寛容さ・多様性を失ってしまったら,もはや大学ではないのですから。そう考えれば,現在のSARS-CoV-2の状況が収束したのち,改めて今回の私たちの立ち居振る舞いを(落ち着いて:来年にはそうできるとよいですが・・・)反省・検証する際にも,あまりに生産性の低い不毛かつ殺伐とした単なる批判にならずに済むのかな,そう思いつつ願っています。

(分子工学専攻 教授)