研究と大学院教育

副研究科長 杉野目道紀

杉野目先生はじめに
 大学院生だった頃を思い出す。平成の初め頃のことであるが,吉田キャンパスの今出川通に面した研究室で朝から晩遅くまで,とにかく実験に明け暮れた。3回生までは決して勉強熱心な学生だったとはいえず,これまでの人生で最も自由に暮らした3年間だった。4回生で研究室に配属されてからは,当初設定されたゴールを目指してデータを積み重ねながら,その過程で得た新発見をまた新しい研究テーマとして育てていく「研究」の面白さに初めて出会い,とりつかれ,あっという間に過ぎた5年間であった。
 海外で開催される国際会議に簡単に参加できるようになった最近の事情とは異なり,当時は教員も含めて海外への渡航は極めて限られていた。実際に,学生時代に海外で開催される国際学会に参加したことは一度もなく,それが当たり前の時代であった。また,当時は学科の区分が大学入試時点から細分化されていたこともあって,5学科6専攻あった化学系の中でさえ,他の専攻の学生と交わる機会は限られ,とにかく道場的な環境で研究に没頭した。ただ,学生として置かれた環境はこのようなものであったにも関わらず,当時ご指導賜った恩師の学術的国際競争力は極めて高く,多くが今もアカデミアで活躍する先輩,後輩と密に過ごす機会を得たことはとても貴重であった。
 このような書き出しで始めたが,決して当時の状況を単純に懐かしみ,賞賛して,道場型研究主義回帰を訴えようとしているわけではない。そのプラスの面を生かしつつ,さらなるプラスアルファをどのように実現していったらいいのか,という視点から本稿を書かせていただいている。私自身は道場型研究が日本の独創的学術研究の源泉となってきたと信じているが,大学を取り巻く社会状況はこの間急激に変化し,大学院における教育もその形を変えざるを得ない状況となりつつある。以前は大学にほぼ完全に任されていた大学院教育制度が,国やその他のいわゆるステークホルダーから様々な要請を受ける時代となっている。この「要請」が全大学一律に,しかも長期の視点なしになされるのが日本の大学の活力を奪ってきた一つの原因とも感じられるが,確かにアカデミア人材の育成だけでなく,社会全体に優れた人材を供給することが,博士課程学生に対する教育において急務となっていることは間違いない。そもそも大学院教育とはどこまでを指すのであろうか? 大学院における「研究活動」は大学院教育においてどのように位置付けるべきなのか? 優れた研究大学に求められるものはなんであろうか?以下では私自身の考えと,京都大学で新たに設置する「大学院教育支援機構(仮称)」の立ち上げ状況を紹介させていただき,工学研究科における大学院教育に関する今後の議論の参考としていただけたら幸いである。

大学における「研究」の位置付け
 遅まきながら大学における「研究」と「大学院教育」の関連性について考えるようになったきっかけは,2014年頃に国立研究所の中のいくつかを「特定国立研究開発法人」に指定して,研究者の給与を自由に設定できるなどの,特別な待遇を与える法律を制定しようとしているとのニュースに接したことであった。日本の研究を支えているのは大学での研究であると疑うことのなかった私にとっては,そのような特別な待遇が国立研究所にまず与えられる,というのがショックであった。国立研究所の研究と大学での研究の違いはなんであろうか? 文系と理系,学術分野によって様々な考えはあると思われるが,化学分野で研究に携わる私が至った当たり前の結論は,研究への学生の関わり,であった。学生を指導しながら研究を一緒に進めているという意識はそれまでも当然持ち合わせていたのであるが,「教育」というのは講義を中心とした座学の部分に限られるという認識が強かった。大学においては学生とともに世界と伍する研究成果を挙げ続けながら,研究経験のない学生に対して研究というものがどのようなものであるか,研究倫理とは何か,研究をどのようにして進め,どのように発表するのかを教えながら,場合によっては生活や健康に関する指導も行わなくてはならない。学生には,共同研究者と協調しながら自律的に研究を進められる研究者として巣立っていってほしい。その観点からは,大学は極めて難しく,重い責務を負っている研究,教育機関であるといえる。
 このように考えると,大学における「研究」の位置付けが見えてきた。学生を主役としなくてはならない。優れた研究大学とはすなわち,大学院生が自立した研究者やリーダーとして成長するための「優れた研究・学びの場」を提供できる大学ということになろう。第一に重要なのは,学生に高質の研究課題を提供し,学生と「ともに」独創的な研究を進めていける優秀な教員の存在である。第二に,学生が自由に研究を進めるのに必要な研究資源が個々の研究者,研究室の枠組みを超えて整っていて,やろうと思ったことが物理的な障害なしに,容易に実施可能であることであろう。124年前に研究大学として設立された京都大学では,これらの環境が継続的に高いレベルで整備されてきたことが,研究に対する現在の高い評価につながっている。この強みは,京都大学の各部局がそれぞれの学術分野にあわせた人事,組織編成,カリキュラム構築を適切に行ってきたために獲得されたものであり,今後も部局が大学院教育に関する中心的な役割を担うそのスタイルは堅持されるべきである。

横断教育の重要性
 さて,ここからが核心である。学術のみならず,産業技術も複雑化,融合化,国際化しつつあり,学際的新学術/産業創出の必要性が高まる中,社会に出ていく大学院生にこれまでよりも広い,いわば「横断的な」視点や経験を身につけさせることの重要性が高まっている。まさにこの点が近年の社会からの要請であり,優れた研究大学に求められる「優れた研究・学びの場の提供」という観点には,「優れた横断的学修機会の提供」が第三のポイントとして含まれ,今後一層重要性を増すことであろう。限られた修了年限の中で,学生にこれまでと同様に高度な研究を進めさせながら,同時にそのような横断的な視野を身につけさせるためには,学術分野の特性や学生個々の希望に沿った柔軟な学習指導が必要である。これまで,このような視点からの研究指導は共同研究,インターンシップ,海外派遣などを通じて主として個々の教員と専攻,部局単位の取り組みにより進められてきた。ただ,このような指導に現状より多くのエフォートを割くのは現実的に不可能であろう。
 誤解のないよう,ここでもう一度繰り返しておきたい。ここで取り上げている「横断的学修」は,すべての学術分野,部局を包括して行う「大学院共通教育」を指しているのではない。もう少し個別の専門学術分野に特化し,ただし,部局あるいは文理の壁を超えてより広い関連分野が含まれたものであって,部局横断のみならず,産学横断,国際横断の観点も含まれうるものである。京都大学においてこのような部局連携教育を部局主導で行うことは相当に困難であろう。実際にプログラムを走らせるまでの協議は気の遠くなるほど労力を要するものとなる。このような取組みを,大学全体として制度化し,支援するために設置するのが大学院横断教育支援機構(以下では新機構)であり,今年度中の設立を目指して準備が進められている。

京都大学「大学院横断教育支援機構(仮称)」の設置
 京都大学では,大学院教育は研究と不可分であることから基本的に部局の専権事項とされ,部局横断的な観点からの全学での制度化は積極的に進められてこなかった。それでも,京都大学では部局横断型の大学院教育プログラムとして博士課程教育リーディングプログラム(2012年度から)や卓越大学院プログラム(2019年度から)を実施し,それらの円滑な実施と質保証を行うための全学組織(大学院横断教育プログラム推進センター)と諸規定の整備を進めてきた。これらのプログラムは,大学としての大学院教育改革を進めるための先駆け的プログラムとして位置付けられているが,国からの補助金を受けていること,さらには学位授与や学位付記が伴うために,参加できる学生の部局が限定され,複数回のQE(qualifying examination)や厳格な修了審査が課されるなど,履修学生に相当の負荷を要求するプログラムである。一方,国際高等教育院には大学院共通・横断教育基盤が設置され,その中に置かれた研究科横断教育特別部会では,2020年度において97科目の大学院横断科目を部局との連携のもと開講しており,その履修者は年々増加し858名に及ぶ。このように,部局横断教育は重要視され,広がりを見せているものの,依然として局所的な施策にとどまっていた。京都大学が大学院教育の3本の柱として掲げる「高度学際」「社会適応」「国際教育」の3戦略を推し進めるためには,部局の取り組みを大学として総合的に支援する組織が必要ではないか,と考えられる。
 このような取り組みを大学として促進するため,新機構の設置が進められている。本年2月に研究科長部会のもとに大学院支援体制等特別委員会が置かれ,その報告に基づいて京都大学大学院教育支援機構設置準備委員会が設置された。現在いくつかのタスクフォースに分かれて新機構の機能や組織について検討を進めており,早ければ本年10月の設立を目指している。新機構は,大学院生に対する全学的な施策を一元的に取り扱うとともに,部局個別のカリキュラムの橋かけを支援する役割を担い,その業務として,大学院における(1)共通/横断教育の実施及び企画運営の統括,(2)横断教育プログラムの支援及び質保証,(3)大学院生に対する経済支援の管理,(4)キャリア支援,(5)産学協同支援,(6)留学生のリクルーティングならびに国際教育の支援,等が想定されている。この実現のため,新機構には「大学院共通教育部(以下では共通教育部)」「国際連携キャリア形成支援部(以下では支援部)」「大学院横断教育プログラム推進部(以下では横断教育推進部)」の3部が設置される。
 3部のうち,共通教育部は現在国際高等教育院に設置されている大学院共通・横断教育基盤の機能を,横断教育推進部は現行の大学院横断教育プログラム推進センターの機能を引継ぎ,拡張することとなる。支援部は新機構の目玉であり新しい業務を担うことになる。支援部は「産学協同キャリア形成推進」「就学・キャリアサポート」「グローバル展開」の3つのオフィスから構成され,それらの具体的な組織と業務については現在TFにおいて検討されているところであるが,現在京都大学が積極的に推し進めようとしている,大学院生への経済的支援のマネージメントも含めて,学生にとって魅力的な環境整備を大学一体となって進めるために重要な役割を果たすことが期待されている。

工学研究科の果たすべき役割
 新機構全体としての重要な機能の一つは,「大学院横断コース」の設置である。これは学術分野ごとの特性に応じて部局横断型で開講する教育プログラムであり,「大学院横断コース」の履修科目表に含まれる必修,選択科目群の中から定められた単位数を取得すれば,大学としての履修証明を授与することが想定されている。開講に直接関わる部局以外の大学院生にもできるだけ広く開放されることが望ましい。既に設置されている前述の大学院横断科目がコース化されたものと見ることができるが,コースの持つ教育目的を教授する「概論」的な必須科目を含み,場合によっては実習科目も含まれる場合があると想定している。まだ制度の詳細は定まっていないが,部局横断型のコースに加え,産学協同教育や国際教育を目的とするコースなどが,新機構の各部を通じて提供されることが期待される。また,将来的にはそれらにまたがる新たなコースの設置により,一層効果的な横断教育の機会が提供されることを期待している。
 このような取り組みのそれぞれは何も目新しいことではない。工学研究科においては,2008年に融合工学コースを設置し,系や専攻を横断して設置された高等教育院の教育プログラムを履修する大学院博士課程前後期連携教育プログラムが開設されている。一部のプログラムは博士課程教育リーディングプログラムや卓越大学院プログラムなどの部局横断型教育プログラムと連携して運営されており,実質的な部局横断型教育を実現してきた。工学研究科としては,今回の新機構設立による大学院横断コースについて受動的に対応するのではなく,これまで培ってきたプログラムに見直しも加えながら全学に大学院横断コースとして提供していく,能動的な対応を検討できないだろうか。研究と教育における工学研究科の総合力を明確に示す,またとない機会となると考えている。

おわりに
 社会からの要請と研究力強化を両立する大学院教育のあり方について私見を述べ,今年度中に行われる新機構の設立の理念と概要について紹介させていただいた。工学研究科が大学院生に対して,より充実した「魅力ある研究・学びの場」を提供できるよう,教職員が新機構を効果的に利用し,より良いものとしていく議論に積極的に参加していただくことを切に願う。

(合成・生物化学専攻教授/大学院横断教育担当副学長)