君のような先生は京大にどのくらいいるのか

名誉教授 木村亮

木村先生 私は令和5年3月31日をもって京都大学を早期退職しました。長い間多くの方々にお世話になりました。この場を借りて,皆様方に感謝の意を表したいと思います。2年前倒しで退職したのは,次の活動に余裕を持って取り組めるようにと考えたためで,5月から大阪市に本社を置くボンドエンジニアリング株式会社で,常勤役員として構造物の補修や補強工事に取り組んでいます。普通は大学の先生など民間人としては役に立たないし,ましてや会社の経営などできないという概念を打破したいと思っています。

 私は京都大学と長い間かかわりを持って生活し活動してきました。1960年に京都大学病院で生を受け,自宅は東一条(関西日仏会館の裏で京大の塀に面している)なので,京都大学の西部講堂や本部構内を遊び場としていました。東一条通りにある第四錦林小学生時代は,医学部の解剖教室周辺を探検していました。黄色のパトランプが回転しているとき解剖が行われていると聞きつけ,ドキドキしながら構内をうろついていました。またその当時でも古かった西部講堂周辺に自分たちの基地を作り,犬を飼い学校帰りに石炭を拾って鍋でラーメンを作って食べたりして,学校関係者にたいそう怒られたことがあります。現体育館やプールのある場所が昔はテニスコートで,そこで暗くなるまで野球をやっていました。たわわに実った銀杏の木にボールを投げ,落ちた銀杏の実を拾って大きな袋に詰めていたら守衛さんに「これは大学の物だから」と没収された苦い経験もあります。学生が騒ぐと小学校が休校になり,時計台の屋上を占拠して機動隊に放水されている学生や,東大路通りをジグザグにデモ行進する姿や,車がひっくり返って燃えている百万遍の交差点など,鮮明に思い出されます。本部の今の文学部あたりで三輪車を無くしたのは幼稚園の頃でした。

 その後,近衛中学に入り,御所の隣にある鴨沂高校に入学し,現役で入学するために猛勉強して京都大学に入学しました。大学受験時の昼休みに家に帰って昼ごはんを食べていた受験生も,私ぐらいだったでしょう。大学入学と同時に高校2年から始めた自転車旅行に夢中になり,アルバイトによる資金作りと国内自転車旅行,2回生から海外に単身飛び出しカナダ横断,オーストラリア縦断,メキシコ縦断,ニュージーランド一周,ヨーロッパ一周,サハラ砂漠縦断と,まあ好き勝手なことをやっていました。今はやりのソロキャンプを通算1年以上続けていたことになります。
 サハラ砂漠に行くときに恩師の柴田徹先生に「将来学校に残って研究者にならないか」と言われ,本当は建設会社に入って海外で大きなものを作りたかったのですが,修士を出てそのまま助手になりました。「先生が言うならそれに従ってみよう」と思ったのと,当時の宇治の防災研究所の研究室には柴田徹教授,足立紀尚助教授,八嶋厚助手,三村衛助手とそうそうたる研究者の先輩がおられ,私も挑戦してみたいと思ったからです。

 その後は「夏の暑い日にクーラーの無い学校は暑いので家で子供と遊んでおけ」や「アフリカの大学でちょっと勉強を教えてきなさい」,「本物の研究者は難しいこともできるが簡単なこともできる」,「先生は現場のことはわからないでしょう」,「仕事のできる人は決して頼まれた仕事は断らない」などの諸先輩のアドバイスを自分なりに理解し解釈して,大学の研究者として研究・教育・社会貢献活動に邁進してきました。
 「艱難汝珠」という格言を,一番苦しかった時にお寺の掲示板で見つけ,いくつもの難題を乗り越えてきました。また多くの研究室を渡り歩き,延べ8人の教授に仕えたことはあまり知られていないと思います。京大の土木系教室の地盤系研究室は,私が多くの研究室を移動したため,研究室ごとの蛸壺状態にならずに協力して活動できたと自負しています。
 2006年に桂キャンパスのローム記念館にあった国際融合創造センターの教授となり,その後産学連携センター,産学連携本部と名前を変えながら大学の執行部に近いところで仕事ができたのも,大変新鮮で貴重な経験でした。自分の下にポストの無い一人教授の状態で研究室を運営したために,多くの若い技術者・研究者を学生時代から育て,彼らが成長していくのを楽しみにしていました。今では13名の研究者が積極的に地盤工学の世界をリードしてくれています。また研究室の卒業生は各所で活躍し,力を発揮してくれています。

 東大のある先生に「君は真面目に研究しているのか」と尋ねられたことがあります。海外出張を300回近く,国内出張などでほとんど学校にいなかったからです。ただし,学会での論文賞を7回受賞し,技術開発賞や社会貢献賞も複数回もらって,それなりの研究は実施しており,研究者としては望外の喜びです。特に昨年土木学会の研究業績賞(地盤と構造物の静的・動的相互作用の解明と設計法への適用に関する研究)を受賞できたことは,私と一緒に苦楽を共にし,研究してくれた若き研究者仲間の成果と思い,大変喜んでおります。

 本年は京都大学に関わって45年,アフリカと関わって30年,NPOを作って世界の人と道直しをして15年の節目の年です。1993年にJICA(国際協力機構)が一から作ったジョモケニヤッタ農工大学で地盤工学を教え,若い研究者に研究指導をしてきなさいと言われ,3ケ月ケニアに滞在しました。異国の地でパイオニア的に教育活動をする喜びを感じ,毎年数ケ月滞在していました。2000年からは,アフリカの地域の人々に裨益する研究活動を,アフリカ人研究者に実施してもらうJICAプロジェクトに参画し,自分でその具体例を示そうと思って考え付いたのが,住民参加型の未舗装道路整備手法でした。
 雨季に泥濘化して通行不能になる未舗装道路が80%を占めるアフリカの地で,土のうを道路面に敷き詰め木槌で締固めて硬い路盤面を作り,両側に水路を整備し,たとえ雨季でも市場や学校や病院に行ける生活道路を作る活動を,NPO「道普請人」を作って展開したのです。現地にある材料で,機械を使わず人力で,皆がわかりやすい簡単な技術で,極端に安い道路整備手法を開発するという活動です。15年間で31ケ国に活動の輪を広げ,道直しを教えた人は2万5千人,直した道は250キロに及びます。海外拠点を5か所持っています。10年前から「住民へのチャリティーから住民のビジネスへ」という新たなコンセプトを加え,独自の起業システムで小さな建設会社をアフリカの国々で農民や若者が作っています。
 ILOやUNDPなどの国連機関と協働し,昨年はワールドバンクから大きなプロジェクトをケニアで取れました。「自分たちの道は自分たちで直せるという意識を広げる」という活動が,発展途上国の人々に勇気と希望を与え,独自の発展に結びつくと信じています。「人々の暮らしを守り豊かにする」という土木工学の原点を,世界中の地で展開できたことに誇りを感じ,そのような実践的活動に寛大な心で接してくれた京都大学に,感謝しております。

 「君のような先生は京大にどのくらいいるのか」と聞かれることに喜びを感じ,東京の常磐橋の改修工事や隅田川にかかる永代橋・清洲橋・勝鬨橋の耐震補強やライトアップの方法まで実際に意見し参画できたのは,楽しい仕事でした。4回生で研究室に配属されたとき何がやりたいかと尋ねられ「トンネルの切羽(トンネルの一番前の地盤を掘っている場所)で,削岩機を使って自分でトンネルを掘りたい」と言って周囲を驚かせ,子供の時から泥団子の作成に夢中で,左官屋さんの仕事を一日中眺め将来は左官屋さん志望であった私は,これからも好きなことを好きなように「発想の転換」をキーワードに頑張りたいと思っております。ただし,これからは美しき流れで若い人に将来を託します。皆様,今後も彼らへの応援をなにとぞよろしくお願いします。

(社会基盤工学専攻 2023年3月退職)