全学共通科目「研究倫理・研究公正」を担当して

副研究科長 川上養一

川上先生はじめに
 私は,2014年度から5年間ほど工学研究科の副研究科長を,伊藤研究科長,北村研究科長のもとで拝命しており,その後は,肩の荷を下ろしていたところですが,2023年度から図らずも立川研究科長のもとで再登板することになりました。工学広報・巻頭言の執筆は,今回が2回目で8年ぶりとなります。還暦を過ぎ,定年まで数年という時期ですので,電気電子工学系の教授会から就任を勧めていただいた際に,何度も固辞したのですが,「前回では修行が足りないので,もう一度修行のやり直しをしなさい」との趣旨と解釈いたしまして,そのことを真摯に受け止め,立川研究科長を微力ながらお支えし,工学研究科の運営についてお手伝いさせていただくことになった次第です。そのため,ここ数年と比較して,多忙にはなったのですが,分野の異なる他系・他専攻の副研究科長の先生方や梶村事務部長や事務方の皆さまと知遇を得ることができて,多様性のある考え方にも接する機会となり,このような喜ばしいところを役得として前向きに捉えております。

研究倫理・公正との縁
 私は,工学研究科・運営会議では「研究倫理」,「研究公正」,「図書」,「広報」,「情報」を担当しており,とくに,研究倫理・公正に関しては,前回の副研究科長時代に引き続いての担当となっています。2014年当時は,この担当は「法務・コンプライアンス」と少し響きの良い名称でしたが,実質は殆ど,研究不正,経理不正,ハラスメント,犯罪行為など揉め事に関するものでした。世間では「スタップ細胞事件」が問題となっていましたが,学内でもほぼ常に不正が疑われる事案の調査委員会が立ち上がっており,京都大学の顧問弁護士や学内・学外の調査委員(予備調査から本調査に移行した際は学外からの人選が必須)も交えて,大変ストレスのかかる調査活動を行ってきました。「白」か「黒」かが明白な事案であれば,それほど悩まなくても済むのですが,多くの事例は,一見,「灰色」に見える事実関係について,調査資料を調べ上げ,当事者を呼び出してのヒアリングなどを経て,結論に至るわけですので,調査されるほうだけではなくて,調査するほうも相当なストレスがあり,私自身,墓場まで持ち帰らなければいけないことをかかえたままであることはこの機会に申し上げ,少しばかり溜飲を下げさせていただきます。大学本部で,研究倫理・公正にかかわる理事を務められた北村(元)工学研究科長,現在務められている椹木(元)工学研究科長に降りかかるストレスは察して余りあります。
 さて,2014年から2015年頃にかけては,このような研究倫理・公正にかかわる負のインパクトを未然に防ぐべく,伊藤研究科長のもとで,行動規範とアクションプランが制定されました。教員に対する,e-Learning研修や研究データの10年間にわたる保存ルールの制定,論文盗用検索ツール(iThenticate)を任意で利用する環境の整備が進み,学生に対する学部入学のガイダンス時,卒業研究に従事する際,及び大学院入学のガイダンス時における研究公正教育,大学院生への論文執筆教育での対面型チュートリアルが導入されたのはこの頃です。
 さらに,2016年には伊藤研究科長がご退職後に本学の国際高等研究院に特定教授として異動され,全学共通科目として研究倫理・研究公正の科目を立ち上げられることになり,川上もそれに参画して欲しいということで,お引き受けしたことが,現在に続く縁になっています。


全学共通科目:研究倫理・研究公正(理工系)について
 研究倫理・研究公正(理工系:0.5単位,7.5時間)は,現在は国際高等研究院の余田成男特定教授,杉山雅人特定教授,工学研究科の川上の3名で担当しており,今年度は下記の構成とスケジュールによって実施されています。
https://www.k.kyoto-u.ac.jp/teacher/la/support/lecture_detail?no=52868

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1. 6月3日(土)の2,3,4時限にZoomにより行う講義(第1講~第3講)
2. 6月10日(土)または6月17日(土)の1,2時限または
  3,4時限にZoomにより行うグループワーク(第4講)
3. 日本学術振興会研究倫理eラーニングコース(第5講)
  講義担当:余田
  グループワーク担当:川上(6月10日),杉山(6月17日)
  ファシリテーター:16グループを各々1名のTAが受け持ち,ファシリテーターを務める。
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 この科目の担当教員は国際高等研究院の教員の任期に伴い変遷がありますが,2018年の設立から2023年の現在まで担当し続けているのは川上だけですので,この機会に設立の経緯と理念について申し述べさせていただきます。さきに述べましたように,この科目の設立は,伊藤先生が工学研究科長時代に様々な不正事の調査・認定の責務をとられた苦い経験から,このような現状を何とかしなければいけないとの強い危機感から,国際高等研究院への赴任直後から準備がなされたもので,2年間の準備期間を経て,2018年から講義がスタートしています。講義1週目に行われる第1講から第3講は,単なる座学のみではなく,研究不正事件(シェーン捏造事件)のNHKのオンデマンド放送や伊藤先生が具体的な事例の詳細と顛末、そして教訓についてビデオ出演を残されており,現在もそれが使われています。伊藤先生は,受講者に対して以下のように呼びかけられています。「皆さんは大学院に入り,いよいよ研究の現場に立つ人達です。その際,ぜひ備えて欲しい知識と経験,そして心構えをこの授業で得ていただきたいと思っています。そのためには,最近,リアルに起こったことを知っておくことが役に立ちます。なぜなら近い将来,あなたの身にも同じようなことが起こる可能性が,十分にあるからです。まず実例を知って,次に想像しましょう。そのとき,あなたなら,どう対応しますか?その仮想経験を活かして,研究に当たっていただきたいのです。このビデオはそのような目的で,授業では伝えにくい実例集として作成しました。」このビデオで使用する資料は,実際に伊藤先生や川上が過去に関わった案件で教訓として残しておきたい事例をベースにしつつ,関係者が特定できない形にすこし改変した仮想案件を用いています。ただ,資料の性質上,授業限定・非公開となっており,ここで開示できないのは残念ですが致し方ありません。
 さらに,この講義の特徴は,2週目(第4講:2コマ分)に行われるグループワークです。受講者は,事前に配布している8課題を事前に熟読したうえで,講義日にZoomにてオンライン参加する形式になっています。Zoomオリエンテーションの後には,ブレイクワークルームに移動し,各ルーム9名ほどの受講者とTA1名(博士課程学生から人選)にて,グループごとに1課題を選定し,研究公正上の問題があったのかを議論し,そして,その問題点を解決するため/生じさせないようにするために行うべきことを取り纏めます。グループワークでの議論終了後にはメインセッションに戻って,課題の説明,議論の要旨,結論を「検討内容まとめ」としてグループ代表の発表者が発表し,それに対する質問を参加者全員から受けるとともに,講評をTAや教員が行うという発表会を行うようにしています。
 課題1~5は,参考文献によるケーススタディー,課題6は学外での捏造事例をもとに作成したもの,課題7については,先の伊藤先生のビデオ出演(学内事例をもとにしたケーススタディー)に関するものです。課題1~7については,以下を議論のポイントとしています。

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(1)事例について「だれの」行動が「どのような」研究公正上の問題点であるのかを纏める。
(2)研究倫理·研究公正上の問題点を解決するためにもしくは生じさせないためするべきことを纏める。
① 事例に登場する人物がどのように行動すべきなのか。
② 事例に登場する組織(研究室,大学(研究所)等)がどのような対応を行えば問題の発生を防げたか,あるいは問題解決できるだろうか。
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 また,課題8については,余田教授の発案によって今年度新たに設けたものであり,生成系AIに関する検討課題を設定し,これの利用の是非に関する議論を行いました。昨年11月末にChatGPTが公開されたばかりで,その可能性や負の要素などまだまだわからないところが多くありますが,影響の大きさが見込まれており,さまざまな観点から議論が行われました。本件に対する明確なビジョンを持ち得ていない私にとっても,新鮮な課題であり,学生さんたちの議論を大いに楽しませていただきました。
 すべての課題について詳細を示すことは,字数の関係で不可能ですが,ここでは課題4について紹介させていただきます。

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【課題4】
若い准教授の北大路博士と二人の大学院生は,この数年,一連の実験を行ってきた。今や,実験結果をまとめて論文として発表する時期となったが,学生と北大路博士はここで初めて重要な決定をしなければならなくなった。かれらは実験を過不足なくすべて一つの論文にまとめることもできるが,その場合の筆頭著者は一人だけとなってしまう。ところが,それほど完全ではない短い論文を二つ書けば,二人の学生それぞれが筆頭著者になれる可能性がある。
 北大路博士は,前者の方がよいと考えた。一つのしっかりした論文を,より著名な学術雑誌に出版するほうがかれらの目的に合致しているからだ。北大路博士は2年以内に終身職が得られるかどうか決まるため,そのほうが自分のプラスになるということもあった。一方,学生たちは,二つの論文を書くほうを強く主張した。かれらは,すべての結果を網羅した一つの論文では,長くて複雑になりすぎると考えたのだ。かれらも,自分が筆頭著者となった論文でなければ就職の際に損をするかもしれないと主張した。
【検討課題】
以下の質問事項についてグループ討論して下さい。
(1)北大路博士はこの問題をどう予期できたであろうか? 
そして,彼は研究室のメンバーに対して,どのような種類の一般的なガイドラインを提示できるだろうか?
(2)北大路博士の研究室や研究機関が,一つの研究に対して複数の論文を公表することに関する公的な方針を持たないとすると,この問題はいかに解決されるべきだろうか? また,このような論争が起こらないためには,実験室や研究機関ではどのような種類の方針を持つべきであろうか?
(3)もし学生たちが,自分たちの心配が無視されたと感じたとき,誰に相談すればいいだろうか?
(4)もし一本しか論文が発表されなかった場合,著者たちは審査委員会や研究資金援助機関に対し,かれらが果たした役割や論文の重要性をいかにすれば明らかにできるであろうか?
参考文献:米国科学アカデミー 編、池内 了 訳
『科学者をめざす君たちへ―研究者の責任ある行動とは』(化学同人) ISBN:978-4759814286
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 上記の課題については,論文のオーサーシップに関するケースで,指導教員としての立場,学生当事者としての立場としていろいろな意見や考え方が想定されますが,受講生の修士課程1回生は,まだ問題意識としてはピンとこないかもしれません。そこで,各ブレイクアウトルームを担当しているTAの方々には,私の方から以下のようなアドバイスをするようにしています。「修士課程1年では,まだ研究発表の経験がない人が多いでしょう。TAの皆さんは,博士課程在学中で,受講生の先輩にあたりますので,研究経験者,学会経験者として,研究活動について誤った議論があれば正すとともに,議論が行き詰ったときは,新たな視点で展開を図ってください。重要なポイントは,事例に対して,唯一の正解があるとは限らないということです。状況に応じて複数の行動がありえるので,立場の異なる視点からも検討するよう促してください。」将来の研究者・教員の卵であるTAの方々は,上記について十分意識してくれており,後輩にアドバイスを与える立場を担うことが貴重な経験になっているようです。

終わりに
 最後に,研究倫理・研究公正(理工系)の抱える課題について記し,将来この講義を担当される教員のための備忘とさせていただきます。この科目は,2018年の初年度は,受講者数が200名に満たないほどで,グループワークも大講義室やホールを利用した対面で行っていましたが,コロナ禍を契機に,現在はオンライン形式の講義が継承されています。受講者数は年とともに増加しており,今年度は工学研究科,理学研究科,農学研究科などから600名を超える数となりました。そのため,4回にわたって行う各回のグループワークにおいて,各組約9名で16組のブレイクアウトルームを設定することで,ぎりぎり収容できる設計となりました。したがって,16名のTAを人選しなければならず,工学研究科,理学研究科からの当初のTA応募者(これだけ受講者が増えると予想が追い付かなかったため少ない数のTA募集数であったことも一因です)だけでは数が足らなかったため,直前までTA人選に苦慮したのが正直なところでして,今年度はとりわけ薄氷を踏む思いでした。このような状況ですので,講義形態や担当教員・TAなどの体制について再検討の時期にきているように思われます。
 研究倫理・研究公正にかかわる事例は,当事者が積極的にかかわろうとする悪者だけに限ったものではなく,自分はそのような悪事には無関係だと思う人たちに対しても,長い人生においては,知らない間に巻き込まれてしまうという性質(大学だけではなくて産業界においても検査データ捏造や最近ではBM不正問題など枚挙に暇がありません)のものですので,巻き込まれてしまいそうなときに立ち止まって考え,正しく行動する習慣を身に着けておくことは極めて重要と考えます。この科目のサステイナブルな発展・展開のために,本拙文をお読みいただいた諸氏諸兄からの,ご示唆を戴けると大変幸甚です。

(電子工学専攻 教授)