変革の時代における「自由な研究」と「知の多様性」
工学研究科長・工学部長 鈴木基史

令和8年4月から工学研究科長・工学部長を拝命いたしました。京都大学が「国際卓越研究大学」の候補として選定され,認定の最終決定に向けた正念場をむかえています。大学そのもののあり方が問われる大きな変革期にこの重責を担うこととなり,身の引き締まる思いです。私は北村隆行先生,大嶋正裕先生,椹木哲夫先生の三名の歴代の研究科長のもとで,研究科長補佐や副研究科長を務めてまいりました。運営の現場に長く携わったこともあり,研究科長の仕事も概ね理解しているつもりではおりましたが,昨今の激動する社会情勢や大学改革のスピードを鑑みますと,これまでの経験だけでは予測もつかない事態が待ち受けていることは確実であり,正直なところ緊張感も覚えております。
私は1988年に本学大学院物理工学専攻(当時)修士課程を修了した後,株式会社豊田中央研究所に入社し,14年間にわたり企業研究者として過ごしました。比較的長い企業経験のある研究科長は珍しいかもしれません。2002年に機械物理工学専攻(当時)の助教授として本学へ戻り,今日に至るまで教育・研究に従事してまいりました。豊田中央研究所はトヨタグループの共同出資によってトヨタグループの視点での基礎研究を目的に設立された研究所です。基礎研究とはいっても,社会実装という明確な出口は必要ですし,それなりにスピード感も求められます。当然ながら会社の経営方針や事業戦略の変更により,情熱を注いでいた研究テーマを志半ばで中止させられるという厳しさも経験いたしました。大学に着任後,当時所属した研究室の木村健二教授から「自由にやってよい」と背中を押されたものの,当初はやりたいことはあっても独自の実験装置もなく,既存の実験装置で思いつく研究は教授の研究の焼き直しばかりで,どうすれば独自の研究を始められるか苦しんだ時期もありました。幸い,着任翌年の2003年から機械系専攻で実施された21世紀COEプログラム「動的機能機械システムの数理モデルと設計論」から若手研究助成をいただいたことを契機に,独自の実験装置を立ち上げ,そこから得られた新たな知見を論文や競争的資金の獲得へと繋げていくことができました。誰かから「この研究はこれまで」と強制されることなく,自らの知的好奇心に基づいてテーマを決め,納得がいくまで真理を探究し続けられることは,何にも代えがたい幸せです。企業経験があるからこそ身をもって実感した「自由な研究」ができる環境のすばらしさこそ,守り抜くべき本質であると信じています。
また,21世紀COEプログラムでの経験は,私の視野を大きく広げてくれる好機ともなりました。当時,この拠点は機械系と複雑系の研究者を,専攻や研究科の枠を超えて「複雑系の数理解析」「複雑流体現象の解明とそのモデリング」「複雑構造材料の特性解析」「複雑系の制御・設計論」の4つのグループに分け,活発な議論を行っていました。その際,数百ページからなる拠点全体の年次報告書の編集委員長を任されたことは,学内に知り合いの少なかった私にとって,短期間で異分野の研究者と交流する絶好の機会となりました。そして自身が所属する「複雑構造材料の特性解析」グループ内での連携はもとより,「複雑流体現象の解明とそのモデリング」や「複雑系の制御・設計論」グループの研究者とも共同研究を立ち上げることができました。この経験によって異分野の研究者と交流することの面白さを知り,その後COIプログラム「活力ある生涯のための Last 5Xイノベーション拠点」,エジプト日本科学技術大学(E-JUST),高校生のための体験型科学講座「ELCAS」などの活動を通じて,学系や研究科を超えてさらに広い分野の研究者と交わることで,私の守備範囲外の研究や分野によるアプローチの違いなど多くのことを学びました。このような活動を通じて自身の専門分野に閉じこもっていた時には見えなかった「知の多様性」がいかに強力なポテンシャルを持っているかを肌身で感じました。
工学部・工学研究科におけるこれまでの取り組みを振り返りますと,立川康人前研究科長の期間に新たな総合知の修得と実践を基盤とした次世代を担う研究者の育成を目的として「次世代学際院」が設置されました。学際院長の横峯健彦教授をはじめ運営に携わる先生方の導きもあり,昨年度は40名近い若手研究者が所属し,若手主導のセミナーが複数回開催されました。設置から3年間の活動を通じて学系を超えた若手研究者同士の学際研究が開始され,その成果が共著論文として出版されるなど,研究を通じた異分野交流が順調に進んでいます。次世代学際院は,発足当初より参加する研究者や職員の献身的な努力により運営されてきましたが,その活動規模を拡大すれば,必然的にエフォートの逼迫が課題となります。若手研究者の自立と融合を実質化するためには,本院の活動に対するサポートの強化が必要だと考えます。
一方,工学研究科には融合工学コースとそれに関連する高等教育院が設置されており,専攻の枠を超えながら共通の学問領域において広い視野を持つ学生や若手を育成する土壌も整備されています。また,工学基盤教育研究センターの先生の努力により,起業精神やプロジェクトマネジメントの能力を育むすばらしい授業も提供されています。残念ながらこのような,これまでの工学部・工学研究科の取り組みの中には,その開始から長い年月を経て設立当初の理念や目的を理解している教職員が少なくなり,必ずしもその機能を十分に果たすことができていないものもあるかと思います。国際卓越研究大学として京都大学が目指す「研究改革」「教育改革」「グローバル戦略」「多様性の確保」「社会発信」「成長戦略」「経営改革」を実現するために,新しい取り組みを開始するばかりではなく,従来の取り組みを再定義して有効に活用することが,スピード感をもった改革の推進には必要だと考えます。
正直に申し上げれば,本稿を執筆しているのは国際卓越研究大学の認定候補としての選定が発表されてからおよそ1ヶ月後です。アドバイザリーボードからの指摘があったこともあり,現在,学内の関心はデパートメント制の導入に集中していると思われます。デパートメント制のねらいは,私がかつてCOEプログラムで体験したような,大きな研究グループを単位とする教育研究活動を,より大規模かつ恒常的なシステムとして実装することにあります。令和8年度より設置される,電気系2専攻を統合した「電気電子デジタル理工学専攻」と,化学系6専攻を統合した「化学理工学専攻」はまさにその先駆けとなるすばらしい取り組みであり,両専攻はこの改組を基にしてデパートメントを構築していくことでしょう。この取り組みを参考にしながら,後に続く専攻もデパートメントの整備を進めていくことになると考えます。今後は,各専攻・デパートメントが主体性をもって教育・研究の方針を構築していく一方で,環境安全,情報環境,建物・設備の維持管理など,インフラに関する多くの事柄は,工学研究科全体で取り組むべき課題となります。同時に,「デパートメントを統括するチェアー・パーソンがデパートメントの将来構想・研究戦略を策定し,研究力強化を図る」ことが,個々の研究者の自由な研究を奪うことにつながらない仕組みも必要だと感じます。真に社会を変革するイノベーションは,既存の延長線上ではなく,研究者が自由な発想で極めた「知」の深淵からこそ生まれるものだからです。重要なのは,個々の研究者が最大限に創造性を発揮できる環境を戦略的に整備し,そこで生まれた知を社会価値へと繋げるための仕組みを整えることだと考えます。
京都大学には,大学改革の進捗に関わらず,毎年新しい学生が入学し,巣立っていきます。研究者が取り組む自由な研究の歩みを緩めることも許されませんし,技術職員や事務職員の皆さんにもこれまでの延長線にはない新しい業務を担当いただくことになるかもしれません。研究科長として,日々進行する教育・研究の質を堅持した上で,各専攻・学系・デパートメントと協力してより良い環境の構築を目指していきたいと思います。皆様のご支援とご協力を心よりお願い申し上げます。
(マイクロエンジニアリング専攻 教授)
