足跡の風景

青山 吉隆

青山 吉隆私が都市地域計画の研究を始めたのは、都市工学研究室の助手に採用された1967年春である。この時期は日本の高度経済成長の躍動期であり、また多くの近代科学学会の日本における黎明期でもあった。したがって、偶然にも都市地域計画に関係する学会の黎明期に私は研究者として歩み始めることになった。そして、これらすべての学会の立ち上げを若輩研究者として身近に見る機会を得た。まるで都市地域計画の主要な学会活動の舞台が私の研究活動のスタートを待ち構えてくれていたかのようであった。この偶然は、今から振り返ると極めで幸運なめぐり合わせとなった。

当時は既往の研究は海外の文献を含めても数少なく、研究のテーマも方法論も手探りであうた。何から手を付けて行くべきかを示唆する回報は少なく、自分が今どこに居るのか解らず、むしろ好みに応じて何から手を付けても研究になりそうな様子であった。したがって都市地域計画の研究を始めたときは、新雪の処女地を自由に踏み荒らし、辺り一面に足跡を残しているような爽快な気分であった。もちろん誤解や失敗も多々あり、遠回りをしたり、立ち往生したりすることもしばしばだったが、それも今振り返ると貴重な学習過程になっている。

このような萌芽期の環境の中で、若輩の研究者は誰でも怖いもの知らず、身の程知らずに大胆な発想で自由に切り込むことができた。28歳の若輩が発表した、「都市計画への数理的アプローチ」はその典型とも言える未熟な未完成の論文であり、今読み返すと恥ずかしくなる。学会の招待講演の場でこの論文を発表したとき、プログラミングの権威であった東大のM教授が「都市の諸現象には、統計的な法則性がたくさん存在しているに違いない。それらの法則性の因果関係を明らかにできれば数理的にアプローチできますよ。」と示唆された。今では信じられないと思うが、都市の社会的現象や人々の行動に法則性があり、それを理論的な仮説のもとに数理的に表現し、政策支援モデルを構築できることなど、当時まだ誰も試みていない状況だったのである。それから約40年間の研究生活を通して、対象や手法こそ変遷しているが、この論文を源として都市地域計画の全方向に数理的アプローチを展開してきた。この展開を可能にしたのは、コンピューターの発達とそれに伴う統計データの整備であり、これも時代が後押ししてくれた。

この40年聞、建設投資額はまず上昇を続けて、やがてピークを迎えて減少をはじめ、2005年には30年前の水準になった。今振り返ると、計画論は上り坂の時代の申し子であった。だがピークを超えて下り始め、ある程度の成熟社会に達した今日、計画者はここで発想を転換しないといけないのではないかと思う。上り坂の時代には、本四架橋、関西空港、高速道路、新幹線、ダム、大規模住宅、などなど、経済成長を主目的とする非常に前向きなビジョンがあった。しかし今日では、需要を創造し、あるいは新しいビジョンを提示しないと、若い人たちになかなかアピールできないと思う。つまり、この下り坂の状況下で、土木計画、都市計画、地域計画はどうすべきかを考える必要があり、新しいビジョンを創造しないままで、従来の建設事業への投資の増加を期待することは、社会的に受け入れられない時代になっている。

計画は、問題解決型の実学であり、総合科学と位置付けている。しかし、これまでの研究論文は、ほとんど予測あるいは現象説明だけといっても過言ではなかった。予測の研究が計画学であり、都市地域計画学だと多くの研究者が思いこんでいたし、現在でもそのような論文が多い。需要が圧倒的に多い時代には、需要以外のものは振り返られなかった。しかし時代の変化と共に、徐々に評価、合意形成、意思決定といったシステムが必要になってきた。また計画の目的も、経済成長から、環境やアメニティを重視した持続可能な発展へと変わってきた。

成熟社会の建設投資の時代には、どこかに需要創造型というか、アイデア型、ビジョン型といった代替案システムが必要だと感じている。すなわち需要を創造するような、新しい価値観に基づく都市空聞のイメージを創造できるような提案型の論文が待たれている。40年間の数理的アプローチのたどり着いたところが、数式のない提案型の論文が必要ということになってしまったのである。

それにしても、先人に荒らされ踏み込む余地もない雪原の前に立ちすくんでいるようにみえる現在の若い研究者たちには同情を禁じえない。しかし、40年前の私に新雪の平原に見えた心象風景は、無知な若者のただの錯覚であって、すでに先人達の偉業の数々によって踏み荒らされた雪原があったのかもしれない。実際、オリジナルと思って取り組んだ研究成果が、すでに海外で行われていることをあとから知って、落胆するという無駄な経験を繰り返してきた。高度経済成長の躍動の過程で、次々と立ち現れる都市問題、地域問題は、あたかも豪雪のように、踏み荒らされた雪原を真新しい新雪平原に再生する雪をもたらしてきた。私が見たのはこの再生産され続ける心象風景だったのだろう。

誤解を恐れずに言えば、問題解決型の実学としての都市地域計画には、普遍的真理は存在しない。ファクト・ファインディングの寿命は短い。それは都市地域の境界条件が変化し続けているからであり、その条件変化が人々の価値観を変化させ、人々の学習の結果、行動原理に影響を与えるからであると思っている。そして何よりも、取り組んでいる課題は、近い将来も重要な課題であり続けるという保証はない。幸か不幸か、これが社会や人々を対象とする都市地域計画の現実であり、古今東西に通用する普遍的真理を追求したい科学者には、取るに足らない雑学に見えるかもしれない。だが、解決されるべき課題は次から次へと押し寄せてくる。

したがって、今でもどこかに若い研究者を待っている新雪の平野がある。そして数十年後、彼らの中に今の私と同じ感慨を抱く研究者がいるはずだ。都市も地域もその切り口によって、多様な側面を見せる。未開拓の平野を探すためには、多様な問題意識を持った異質な才能が必要ということを切実に感じている。研究者の資質、好奇心のダイバーシティを大切に保護しなければならない。研究生活の最後の段階にたたずみながら、若輩研究者を勇気づけてくれたM教授ほどの見識を備えているか、自問しているところである。

(名誉教授 元都市社会工学専攻)