最近の教育をかえりみて

森島 信弘

森島 信弘近年、温室効果などの環境問題、エネルギー問題、生命科学と倫理など、科学的に考えて判断する事柄が多い。それゆえ、科学教育は、市民一人ひとりの普遍的な素養としても、科学者や技術者の知識や考え方の基盤としても、たいへん重要になっている。しかし、新たな課題が生じている。それは、教育すべき知識の量が過大で、学ぶ側にとって概念の把握が困難になっているという状況である。科学技術は発展し続けているため、最新成果を教育したいという欲求も強い。こうした状況が、最近の科学教育そしていわゆる理科離れの背後に横たわっていると考えられる。もちろん、科学教育全般にわたる深刻な事態は、いくつかの国際教育調査の結果や高校までの教育事情などから認識できるが、上記の課題はより本質的で重要であると思う。現在では、各大学で教育内容の見直しが始まりつつあるように見える。今後は、欧米での動きのように、大学や学会などによる科学教育研究と組織的な取り組みがいっそう必要になるであろう。私もこれまで、物理学とその技術上の発展を教えるなかで、いろいろ考えながら多少の工夫もしてきた。優秀な学生たちと触れ合い、多くの方々の貴重な意見を見聞きして学んだことも多い。そこで、私のこうした経験と最近の教育をかえりみながら、この小文を記してみた。

ここ何年か、学部学生や大学院生と接してくると、かれらは資質と能力に恵まれていると思うことがしばしばである。しかし同時に、物足りなさも感じる。つい、私の学生時代(1960 年代)と比べてしまうが、これは適当ではないと思うことにしている。なにしろ、かれらは子供のときからテレビやコンピュータゲームがそばにあり、科学技術が進歩した世の中で教育を受け、大衆化した大学に入学してきたのだから、私が育った時代とは根本的に質が異なっている。したがって、教育と研究、それらに関する教務にあたると、専門の重視による詰め込み教育、あるいは高度なレベルの教育により勉学意欲を低下させてはいないであろうかなどと自問してきた。他方、高校までの教育課程を考えて、体系的な知識は少ないが独創性の豊かな学生が増えるのではないかと思ってみたりした。近ごろの教育環境は質的に変化しており、その対応には根本的に考え直させられることが少なくない。

学部新入生を対象とした少人数セミナー「量子の世界とメガサイエンス」を分担担当してきた僅かな経験ではあるが、目的意識をもち自ら学ぶことができる学生がかなり居ると感じている。漠然とした目標はある学生も含めれば大半である。教科書に沿ってセミナーを進めるだけではなく、多くの身近な現象や科学と技術の最近の話題へと学生の想像を広げていくことで、学ぶきっかけになればと願いつつ行ってきた。本を読み、考え、発表するなかで、学生が疑問を述べて会話がはずむときは、文系理系の区別を感じなかった。かれらの知的好奇心の幅は広く、現在の最先端を知るのは楽しそうであった。うまく初期条件さえ整えば、順調に伸びていくであろうとしばしば思わされた。

専門科目の講義や研究室でのゼミを行っていて気のつくことは、教科書や古典的名論文を学生自ら読むことが少なくなっているようである。名著や原論文を読んで理解を深めたり、大発見がなされた様子に感動することは、研究を進める活力を得るのに大切なことである。また、簡単なモデルや解析により、物事の物理的見通しや本質を明らかにした事例を学ぶのは、研究を発展させるうえでも、たいへん参考になる。私のみるところ、特別研究、修士論文、学会発表などを成し遂げた後にでも、こうした機会を設けると効果的であると感じている。要は、「熱いときにたたけ」で、これは今も昔も変わりはない。

研究手段も大きく変化してきた。最近の学生は、手書きならばすぐできる作図でも、紙と鉛筆で簡単に解析できる問題でも、コンピュータを使用しないと気がすまないようだ。既製のプログラムの使用にためらいはないようである。私のようなコンピュータ古世代人は、かなり自作してきたものである。結果に至る過程を理解していることは重要であり、現在でも肝心なところは、原理から考えて解析の中身まで把握する必要がある。よい成果をあげるためには、独自の考えでプログラムを開発する場合もある。近ごろの学生にも、このような技術開発も心掛けてほしいものである。なお、この背景にも注目しておきたい。最近とみに効率が重視され結果や応用が偏重されるあまり、手間暇のかかるプロセスに重きをおくことをおろそかにしているきらいがある。科学的知識の獲得においても、それ相応の訓練や習熟が必要である。教えるべき知識が深化し量が増えるほど、教育課程のなかにしっかりと知的訓練を課してしかるべきではないかと思う。もしそうしなければ、記憶偏重型の教育になり、かえって科学的思考力を低下させることになりかねない。

ところで、科学研究が発展し、その成果が科学や技術に高度に適用されるとともに、それらを限られた時間で教育することは容易ではない。特に、物理学などの専門科目を系統的に積み重ね形式で教える場合、学部では基礎を学ばせて、発展的な内容は大学院修士課程に持ち込まなければならなくなっている。したがって、学部教育と大学院教育のつながりと、教育の体系化と組織的な取り組みがますます重要になっていると感じている。一方、学生は数理的な扱いに気を取られて、肝心の物理がわからなくなる傾向があるので、定性的な考え方と物理現象の概念的理解を中心にして教えてきた。これからは、科学と技術に関する最近の話題との界面を教えるだけではなく、生体、社会、環境などの、いわば身の回りの複雑系との関連も交える必要があるように思う。学生の側からみれば、学習していることと、日常的に興味や関心を抱く事柄が結び付いて理解しやすくなるであろう。教える側は少し工夫を要するが、その心構えを作家・井上ひさしの言葉を借りて記せば、「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」である。さらに付言すれば、教員が学生と時間を共有して、知の営みをともにあずかる大切さである。創造的能力を引き出し伸ばすためには思考のトレーニングが不可欠である。

(名誉教授元原子核工学専攻)