「米国で得たこと」

村上 正紀

村上 正紀博士課程終了と同時に渡米し、カリフォルニアで4年間過ごした後、引き続きニューヨークで16年間、合計20年間のアメリカ生活後での京都大学への赴任である。京都大学にお世話になったのは、17年間であったが、今まで日本への帰国を後悔した事は一度もなく、毎日楽しく過ごさせて頂き、教員、事務員、学生には感謝の気持ちで一杯である。社会人になってから、日本と米国の生活がほぼ半々の為、キザに聞こえるかも知れないが、今でも日本に居る時は、米国に長年住んでいた事が夢のようであり、米国に一週間程滞在時には、日本に現在住んでいる事が信じられない位の“ 中途半端” な心境の毎日である。今回、小生のような中途半端な新米名誉教授に原稿依頼され、“ 名誉”な事ではあるが、すでに多くの先輩・同輩名誉教授が、大学のあり方についての有意義なコメントを書いておられるので、“ 中途半端”な事を書かせて頂くより、米国滞在で得たことを気楽に書かせて頂く。

渡米したのは、特に「錦を飾って帰国する」ためではなく、我々の卒業時は不景気であり、当時、一般に言われた「アブレ組」であった。卒業当時の40年程前でも「末は博士か、大臣か」の言葉はすでに薄れ、「博士号は足の裏にくっついた米粒」に例えられる位、自活出来ないオーバードクターの最盛期であった。日本では職無しでは、生活は不可能なため、結婚して2 週間後に日本を去った。渡米にあまり乗り気でなかった家内には「新婚旅行のつもりで1年ぐらいはカリフォルニアで…」との甘い言葉で誘い、この言葉に乗った家内の“ 悲運”が始った。年末には必ず「そろそろ帰国?」と尋ねる家内に「もう少し頑張れば、研究が完成するから…」と毎年同じことを言い続け、さらに日本をより遠ざかるようにニューヨークに移り、IBMワトソン中央研究所に16年間在籍し、結局は19回同じ言葉を繰り返した末、やっとの帰国となった。(無論、研究が完成したから帰国したのではない)。このように欧米でブラブラしている日本人たちを我々は、「インターナショナル・ルンペン」と英語にもドイツ語にもならない言葉で言い合っていた。

20年目にしてやっと母校に戻ることになった。京都大学での第一印象は、建物・実験設備など多くのものが、卒業時そのままで、有難い事に、20年間の空白を一日で取り戻してくれた。IBMでマネジャーをしていた時には最新設備を研究室に取り入れる事に時間を費やしていたが、材料研究に関しては世界の最先端を自負する材料工学教室は、このような環境でも世界で一人前に戦える事を知り、ショックに近い驚きで、非常に複雑な気持ちであった。教室の先輩達の「世界で研究の流行を作り出すには、我々、研究者は、研究設備で勝負しているのではなく、常に、頭で勝負している」との主張を、自分に納得させるのに時間がかかった。帰国して、学会や企業で「IBM ワトソン研究所」についてよく講演を頼まれたが、必ずと言ってよい程、「先生!IBM のような、そんなに環境のよい研究所におられながら、何故日本に帰られたのですか?」との質問を受ける。この質問こそ余計なお世話と思え、当時は、質問者には、「鮭の遡上と同じ理由です」と、全く答えにならない解答をすることにしていた。

20年間のアメリカ生活で何を習得したであろうか?家内に言わせれば、小生はアメリカでは主に3つのことだけを習得したらしい。第一には「ワインの注ぎ方」である。アメリカでは、お客様はレストランで接待するよりも自宅で接待する方が丁寧なもてなし方であり、ワインを飲みながら夜遅くまで、夕食する機会に度々恵まれたおかげである。第二は「車の修理」らしい。カリフォルニアではよくテントを担いで猛暑の砂漠の中を一日中車で走り続け、またニューヨークでは厳寒の冬にカナダ国境近くまで家族でスキー旅行に出かけた。万一、車に故障が生じると砂漠地帯にまで修理に来てくれる便利屋はいない。仕方なく自分で車の応急修理法を勉強した成果である。第三番目は「自己主張の仕方」である。ご存知の通り、日本では「沈黙は金なり」であるが、アメリカではこのようなことは全く通用しない。いかに自己主張を上手にするかという訓練を、アメリカ人は幼稚園児より「Show and Tell」という時間で身につける。IBMでマネージャーをしていた頃、口から先に生まれ出て、このような「訓練」を受けた同僚を相手に人材、研究費、実験室を確保せねばならない立場に立たされ、語学のハンディキャップを補うためには必然的に自己主張が強くなったらしい。帰国してからは、折角アメリカで習得したこれらのことは日本では全く役に立たない。

しかし、自分では、もっと大きな事を習得したと自負している。米国は、多種民族の国であり、英語も流暢に喋れなく、ルーツも無い我々のような外国人が生き残るには、成果をださねば、話にならない。カリフォルニア大学での研究成果無しにIBM の就職試験の難関は突破できなかったと、今でも思っている。且つ、IBMのみならず、米国の多くの企業・大学での評価は、メリット・システム(meritsystem)を導入し、字が示す通り、価値あるものだけが生き残れる制度下での研究生活は本当に貴重な経験であり、日本での生活に大いに役立っている。無論、評価と報酬は一対一の関係であり、毎年の年末の評価は、20年間休む事なく緊張感をあたえてくれた。このような成果主義を目の当たりに見させて頂いたお陰で、メリット・システムを導入されていない京都大学での生活が天国に思えた。有難い事であった。さらに、海外在住の一番大きな収穫は、多国籍の研究者と親しく交際できたことだと思う。外国人のみならず日本では「雲の上の人」と思われる日本からの来客でもアメリカに来れば、言葉のハンディキャップの為に現住の日本人に頼らねばならず、その恩恵(?)を被り、親しくさせていただく機会に恵まれた。京都大学での研究室作りにアメリカで知り合った多くの日本人の方々の援助を受け、有り難かった。

無論、日本人からだけの援助でなくIBMからも多大な援助を受けた。帰国直前には「京都大学に戻っても実験設備がないだろう」とのIBMの上司の気遣いで、今までIBMで使用していた装置を日本に無償で送ってくれる段取りしてくれた。「暫くはサンプルも作製出来ないであろう」とIBM での多くの友人達が一ヶ月間協力して5年間分の資料を京都大学の学生の為、作成してくれた。さらに、小生はマネージャ職に携わっていた為「折角、IBMが装置を送っても、セットアップが出来ないだろう」とニューヨークからわざわざテクニシャンまで派遣してくれた。テクニシャン(Bill Price)で思い出したが、学生とのユーモアなやり取りは、今でも忘れられない。Bill が、実験室で装置の組み立てを学生たちとしていた時、トイレに行きたくなり、“Where is lavatory?”との学生への質問に対し、学生は、 lavatory とlaboratory を勘違いしたらしく、“Laboratory is here”と答え、Bill は当惑し、次に“Where is restroom?”との質問には、“You canrest here”との学生の答えには、ついに辛抱出来なく小生の部屋に飛び込んできた事もあった。さらに、今年の4月に京都で開催された国際学会での小生の定年シンポジュウムにもIBMでの友人達が来てくれ、昔話を学会で披露してくれた。これらのIBMの心遣いには、国境がない事を思い知らされた、と同時に、言葉で言い尽くされない位の感謝の気持ちで満ちた。IBMを去る最後の日に「今までお世話になった恩返しはどうすればよいか?」とボスに尋ねたら「いつか国際的に通用する、おまえの研究室の卒業生を一人でも送ってくれ」と言われたが、それが実現していないのが今でも心残りである。

米国生活での収穫のみ触れたが、無論、京都大学で得た事は、多くあるが、紙面の制約上、書き尽くせない。一番大きな収穫は、学内では、共同プロジェクトやゴルフなどの懇親会を通じて、専門分野以外の教員に、非常に親密にさせて頂いた事である。学外では、“ 京都大学”の看板のお陰で色々な分野の省庁関係、学会、企業の方々と懇意にさせて頂く機会に恵まれ、今まで全く知らない分野が勉強出来た事である。さらに学生には、「自学・自習」で接し、全く教育をした覚えは無いが、卒業後、研究室を良く訪ねてくれ、鼻高々な活躍ぶりが聴ける事も京都大学での収穫である。

今は、私立大学にお世話になっているが、京都大学は日本のみならず、世界に通用する人材の輩出と21世紀をリードする研究発信に外部から大いに期待されている事をさらに強く実感した。是非、これらの期待に応えられるように、現役の教員・職員・学生が一体になり「Noblesse Oblige」の意識の高揚をはかり、頂くことを期待し、この書を終える。

(名誉教授元材料工学専攻)