京都大学工学部化学系の伝統

中辻 博

中辻 博昭和37年(1962年)に京都大学の門をくぐってから、平成19年(2007年)3月まで45年、学位をいただいて教官になってからでも36年、それなりに長い期間ではあり、何とか精一杯生きてきた。その間、素晴らしい先生や友人にめぐり合えたこと、多くの学生の皆さんと楽しく研究や教育の時を共有できたこと、幸せの一語に尽きる。

京都大学には「自由の学風」という長い歴史を経て育て上げられてきた学風があります。また工学部化学系には、これを土台として築き上げられてきた素晴らしい伝統があります。深い理解のうえにさらに有用なものを造る「工」の意味、「独創性」の重要性、「客観化」の大切さ、など等、学生時代、恩師の先生方が講義の合間によく熱っぽく語られたことを、今も私の宝として大切にいつくしんでいます。これらの言葉は、単なる言葉ではなく、熱い実感を伴って私の心の中に生きているのです。

私の研究分野は化学の理論であり、量子的自然現象の中に在って、それをひそやかに統べる実在である「量子的化学原理」を発見し、表現し、生かすことであります。その研究生活の中で私が大切にしてきた事は、主に次の3つに纏められると思います。その第一は、まず「ゼロから作る」こと(日本語では「一から作る」と同義)。これは人の真似をしないということでもありますが、実は別の意味では、自分の個性や疑問・直感を信じて、それを貫いていくという風にもいえるかもしれません。学生時代、駆け出しの教官時代は私もずいぶん人の論文も読み勉強もしました。しかし、だんだん雑用も増えそれもままならぬようになると、だんだん自分の頭だけで考え進めるようになりました。これを暖め進めていきますと、次第にそれが初めての事なのか、既に誰かがしていた事なのかが分るようになります。幸い誰もしていないようだと分かると、ただ夢中で推し進めていく、ということになります。その中で一番大切だと思った事は「be optimistic」だと思います。これはアメリカでの私の先生であるBob Parr先生が常に仰っておられる事で、本当に大事なことだと思います。研究に限らず、人生なんでも一寸先は暗闇な訳ですから、心配ばかりしていても始まりません。やるっきゃないということで、ゼロからでも怖がらず無鉄砲にやることも、大切だと思います。

それから研究の価値を図るメジャーのひとつとして、「不可能を可能にしてこそ研究」と考えてきました。研究のいろんなレベルでそうですが、何かそれまでは不可能とか、難しいとかいわれてきた事が、イヤそうじゃなくって、こう考えれば簡単ですよとか、こうすればできますよとかいうことが、研究の面白さや意外性につながるように思われました。

それから、これが一番大切な事ですが、「有用なものしか残らない」ということです。この事は、真にアカデミックな研究においてすら真実であります。実際、「有用」という事にも大きな巾があり、文化としての用もあれば、生活の道具としての用もあります。ただ、「ゼロから作る」、「不可能を可能にしてこそ」の判断基準を潜り抜けて、そうそうはじめから有用なものなんかありっこありません。ここに研究というものがライフワークになる由縁が出てきます。ゼロからスタートして有用なものにまで作り上げるためには、まずその方法が広く応用できて、しかも信頼度が高いなど、方法論的にもアルゴリズム的にも洗練されたものに作り上げていく必要があります。多分、そのためには、基本的なアイデアはシンプルで明晰でなくてはならないと思います。また、その方法を実際の多くの対象に応用して検討・吟味し、その方法のメリットをうまく抽出できる道具立てをそろえることも必要かと思います。また、時代の追い風というものもあります。例えば私たちの理論化学・計算化学の分野は計算機をおもな手段としていることから、情報分野の発展の恩恵をまともに受けることができました。この追い風は、まだまだ続きそうで、今、世間を騒がせているペタフロップス級の超並列計算機が当たり前になる時代になれば、シュレーディンガー方程式の解析的な解法も、いまのSAC-CI 程度の物にまで応用できるようになるかもしれません。そうなれば、シュレーディンガー解でシミュレーションという時代になり、自然そのもの、あるいは測定の精度を考えれば、自然以上に正確な現象の顕現や、まったく厳密な予測が可能になるかもしれません。

京都大学や京都大学の化学系には、学問や文化をしていく土壌があり、私たちの先生方もこれを大事に育てられ、私たちに継承してくださいました。私たちも実際これをこの上ない宝と考えてこれをさらに育て、高め、引き継いでいく努力をしてまいりました。ただ、この京都大学の学風は、自由な時間を学問に没頭して始めて発展させることができるものであります。しかるに昨今の大学の現状を見ておりますと、若い方ですら沢山の雑用を抱え、本当の意味で「白衣」を着て現場で先頭を切っておられる方は少なくなってきているのではないでしょうか?このたびの改組によってより独立的な「自由」のある運営がなされるものと期待していたのとはむしろ裏腹の状況に陥っているようにすら感じられることが、しばしばあるように思われます。

本来の「京都大学」に戻すための「改革」が必要なのではないでしょうか。京都大学のよき伝統を守り発展させていくことができる執行部を選び、その監視と変更の権利を留保した上で、執行部に運営を一任し、機構を簡素化するという改革を断行して、大部分のスタッフは研究と教育に専念しその夢を追い実現する、そんな体制はできないものでしょうか?

(名誉教授元合成・生物化学専攻)