京大体育館前庭の白梅に想う
浅き春、退職を前にした私は西部構内の「京都大学総合体育館」(1972)を訪れた。前庭の白梅が二月の陽光を含んで輝いていた。先師、増田友也先生(1914-1981)の指導のもと、大学院生のときに実施設計のスタッフとして参加した作品である。京都大学創立70 周年記念事業による施設の建設であった。体育館正面(図1)の石庭の石は卒業生からの寄贈による。信州・天竜川、四国・吉野川などから多くの石が寄せられた。石組みの配置は師の現場における直接の指図による。体育館が竣工したときに、当時の教養学部(現在の総合人間学部)のドイツ文学者、佐野利勝先生(マックス・ピカート著『沈黙の世界』の訳者)が「京大の顔」が出現した、と慶ばれたことを風のうわさに聴いた。
体育館正面の階段群は3つに分割されている。階段群の間に2つの石庭が組み込まれたのである。2つの石組みは、対比的に、この作品のもつ垂直的モチーフ(北庭)と水平的モチーフ(南庭)を示しているかに見える。庭を内包し伸び拡がる正面階段群は、主体育室が置かれている基壇への導入部を構成し、主体育室内部と東大路とを繋ぐ強力なエレメントである。基壇上では、学生たちがしばしば舞踏を演じている。その辺りは、舞台にもなりうる可能的な、空けられた場所である。空間とは、身体の延長として、両手を拡げたときの脇あたりの拡がりである、と師は繰り返し説いた。ゆったりと大きく両腕を拡げて、訪れるものを包み込むファサードの構成は、師が生涯をかけて探求した「空間なるもの」の具体化を示すものであろう。師の退官の14 年後から私は17 年間にわたり担当することになる「建築論」の講義において、体育館前庭の構成を空間表現の優れた具体例として引き合いにだし、学生に語り続けたのである。
「京都大学総合体育館」の、基壇(屋上庭園)と庭(中庭)とによる空間構成には、実は、長い前史がある。この施設は「計画案・京大会館」(1964-69)の縮小案として成立したのである。原案のうちの体育施設のみが実現され、学生と教職員のための福祉・文化施設は除かれたのである。「京大会館」の全体計画の詳細については書くスペースがないが、その概要は、中央に置かれた体育館と音楽ホールの周囲を、学生と教職員のための諸施設が、大小の内庭を蔵しつつ包囲するという構成であった。四周を包囲する諸施設の屋上は庭園として開放され、東大路を渡るブリッジによって本部構内(西部構内との間に一層分のレベル差がある)と結ばれていた。本部構内から見れば、屋上庭園は、広大なエントランスの庭園とみなせる(図2)。西部構内全体をめぐる屋上庭園は、いわば空へのファサードであり、一方、地上に織り込まれた名もない中庭群は親密な人間の場所となる。現存する総合体育館南側の部室棟前の中庭(石が配される)、北側の坪庭(竹林が計画されていた)のモチーフは、原案の中庭に由来する。
「伝統」について、一言、記しておきたい。私が学位論文の主題として取り上げた、20 世紀を代表する建築家の一人であるルイス・カーン(1901-1974)は、「伝統」を「金色の塵(a golden dust)」と捉え、「人間本性のエッセンス」であると語っている。学ぶことが「金色の塵」として降り積もり、その塵に触れるとき、人は「予期する力(power ofanticipation)」を得る。そして世界が始まる以前の世界をも知ることができるという。カーンはこう語っている。
When the dust settles the pyramid echoing silence gives the sun its shadow.
「塵が降り積もるとき、ピラミッドは沈黙を反響させつつ太陽にその影を返す」と。「沈黙」と「影」はかれの思索の鍵語であり、それぞれ「人間本質」と「作品」を意味する。「太陽」は「自然(存在)」とみなしてよい。この言は、「金色の塵」を媒介とした人間と自然との交錯をいう、と解されよう。私は京都大学の先学の「伝統(金色の塵)」に触れ(それは工学部と文学部の学問である)、「建築以前」という原初的世界について思索する、その方法的態度を学ぶことができたのである。それゆえ、京都大学の伝統に深く感謝したいと思う。「建築なるもの」を問うその歩みは、控え目で目立たないものである。「貧しき前奏」といわれるこの「存在の思索」の先駆性は、謎に満ちた寂寥のうちにあるといえる。
図1 京都大学総合体育館の前庭
昨今の京都大学本部構内の変貌、とりわけ耐震補強改修という名のもととはいえ、工学部化学総合館をはじめとする工学部の建築群の改修による品格の欠如は甚だしいものがある。それらは端的に「厚顔しい」デザインといえるものであろう。京都大学の建築学科・建築学専攻の伝統、つまり森田慶一(作品として農学部正門、楽友会館、基礎物理学研究所がある)、増田友也(作品として工学部電気教室、工化総合館、土木総合館、工学部本部事務棟他がある)の作品世界とは相容れないものであろう。森田先生は「古典主義」の「原理」「格」を、増田先生は「空間」をそれぞれ表現の「第一のもの」とされたのである。空間、時間、つまり時空への方法論的問いは20 世紀の学術・芸術に通底する根本課題であったと思う。近代建築のビギニングには、建築の起源への探求があったといわれる。起源とは、端的に空間現象とされ、それまでの歴史主義的な様式は虚飾として否定される。新しい方法と新しい空間表現による新しい建築が探求されたのである。大学の施設は、このような先端的かつ根底的な問いに応じるものでありたい。
(名誉教授元建築学専攻)
図2 計画案・京大会館 設計:増田友也
手前が本部構内。西部構内の京大会館屋上へのブリッジが計画された。