師との出会い

田村 剛三郎

田村 剛三郎湯川先生がノーベル賞をもらわれて間もない頃、片田舎の小学生だった私はその伝記を読んで強い印象を受け、先生のようになりたいものだと思った。のちに京大の物理学科に入り、同じような動機で物理を志したという同級生が少なからずいたので驚いたが、これを世に湯川効果と呼んだ。3年生向けの講義が基礎物理学研究所の講堂であった。先生はいつも独り言のように、ニュートン自身も慣性質量の取り扱いには困っていたようですね、プリンキピアのその部分の記述はまことに歯切れが悪いとか、ローレンツ短縮を起こした超高速列車の前に溝があったらどうなりますかなどと問いかけ私たちを煙にまかれた。真実はシンプルです、難しい数学なんか使いません、特殊相対性理論は中学生でも分かるルートしか使っていないでしょうと話されたこともある。今から思えば、当時の素粒子論混迷の時代にあってそのような言葉を吐かれたのであろう。私たち学生にはその辺りの事情を知る由もなかった。期末試験のときには、黒板に物理定数について述べよとだけ書いて出て行かれた。もちろん監督者はいない。そのとき湯川先生は、万有引力定数が宇宙の進化と共に変化するという説に興味をもっておられたふしがある。また、その頃に来日中のハイゼンベルクの講演が経済学部講堂であり、湯川先生が司会をされた。今から思えば、何も分からない我々学生にまで学問の香りが漂ってくるよき時代であった。学問をするのが当然という安心感があった。いまや大学は変貌し、経営能力が問われ、社会への説明責任が重視されるようになった。大学の門が大きく開かれ、多くの有用なものが入ってきたかも知れないが、それと入れ代わりに、失ってはならないものまで流失してしまったようにも思える。この現状をみて湯川先生はどのように言われるであろうか。きっと、人間味がなくなったねと残念がられることであろう。

湯川先生の講義が基礎物理学研究所であったのは、北部キャンパスの物理教室が改築工事中であったためで、ほうぼうに間借りをして講義を受けた。工学部土木教室のレンガ造りの薄暗い建物の中でX線回折実験をしたこと、土木教室の前にあった文学部図書室の窓ガラスをキャッチボールで割ったことなど今も鮮明に覚えている。

3学年が終わる頃、研究室配属のためのガイダンスが土木教室の一室であった。ある日、東北大学金属材料研究所から移ってこられたばかりの若手助教授の話があるというので物見遊山のつもりで友人と出かけていった。学生は3人しかいなかった。はじめに先生は、君たちフェルミ面を知っていますかと質問された。他の2人ははいと答えたが、私はといえば、恥ずかしながらその初歩的なことを全く知らなかった。先生は、液体金属中の伝導電子の振る舞いについて最新の金属電子論をもとに熱を込めて話された。ちょうどその頃の1960 年代後半は、周期系の電子論が非周期系へと大きく転回した時期に相当し、英国のザイマンや後にノーベル賞を受賞したモットが液体金属の電子論を新たに展開し大活躍をしていた。液体金属の国際会議が立ち上がったのもこの頃であった。先生の話の中身は十分には分からなかったが、そのときに受けた印象、新鮮な驚きを今でもはっきりと覚えている。この日のガイダンスをきっかけとして私は液体金属の分野へ進むことになった。このときの先生が遠藤裕久先生であり、その後長く指導をしていただくことになった。

長谷田泰一郎先生は、若手の教授として金属材料研究所から遠藤先生と共に物理学教室に移ってこられた。低温物理とくに磁性がご専門で、遠藤先生の液体金属、どちらかといえば高温がご専門であることとは対極にあるが、金属微粒子を一緒にやろうということでこちらに来られたと聞いている。その頃、東大の久保亮五先生が金属微粒子の理論を出され、その個数選択性や特異な電子状態に興味をもたれたようである。粘土鉱物であるゼオライトの空洞中に金属原子を詰め込んで微粒子を作ろうと長く試みておられた。私はその研究に加わらなかったので長谷田先生から直接のご指導は受けることはなかったが、折に触れ科学者としての心構えを教えていただいたことが大きい。4年生になってはじめての面談のときのことである。君は何を不思議に思うかねと問われた。蛍の発光と炭酸同化作用ですと答えたように記憶している。京大に入って間もない頃中央図書館で、さて大学で何をしようかと考えたことがある。そのとき思ったのが、蛍がどのようにして光を作り出せるのか、炭酸ガスと水に光が当たるだけでどうしてあのように葉や実ができるのかということであった。いまや私の専門分野はそれらと大きく違ったものになったが、40 年を経てもなおこのようなテーマはホットであると思う。素朴な疑問や発想を長谷田先生はいつも大切にされた。また、実験を通して自然を見よと言われ、実験をとても重視された。かつての金属材料研究所では学生が机に向かっていると椅子を蹴飛ばされ、そんなことは家でやれここでは一生懸命実験をしろと叱られたという。京大の中にありながら長谷田・遠藤研究室の雰囲気は一味違ったものであり、ガラス細工や金属工作、木工、溶接の仕方を一生懸命身につけて皆実験を楽しんだ。鬼気迫る結果を出せとも言われた。鬼気迫るということがどのような感じか、長谷田先生は能を観ていてゾクッとする瞬間の感じであると言われたが、博士課程の実験中にそれを一度だけ体験した。非晶質ゲルマニウムは圧力をかけてゆくと結晶と質的に違う半導体・金属転移を起こすのではないかと考え、東大物性研の箕村茂先生のところへ出かけ超高圧実験をしていた頃の話である。蒸着でつくった非晶質ゲルマニウムの薄い膜は壊れやすく、電気抵抗を測定することができないまま2年が過ぎてしまった。先生方は大いに心配され、研究テーマを変えたらどうかと言われるし、私自身、期待していることが本当に起こるのであろうかと大いに不安であり、窮地に立たされていた。実験成功祈願のため研究所すぐ近くの乃木神社にお参りもした。その兆しが現れたのは真夜中のことであった。電気抵抗を記録するチャート紙の上をペンが走るのを眺めながら、手押しポンプを動かし圧力をかけていた。圧力が6万気圧ほどかかったところでペン先がピクッと動いた。薄い試料膜が壊れないように膜に垂直な方向の抵抗を測っていたので、変化があっても小さいであろうと考えてはいたが、それを見たとき、これがまさに期待していたシグナルであり電気的ノイズではないと直感した。このときばかりはゾクッときた。翌朝、箕村先生にデータを見せてノイズではないことを説明したが、納得してもらえなかった。その後すぐに、薄膜に沿った方向の抵抗を測ることに成功した。すでに確信をもっていたことであるが、まさにその通り、6万気圧のところで抵抗が6桁もジャンプし、非晶質に特有の半導体・金属転移がはじめて見つかった。

誰かがしなければならない大事なことをやりなさいと長谷田先生は言われた。これを先生は一流の仕事と呼び、最先端の研究あるいは流行の仕事と明確に区別をされた。酸化物高温超電導体が見つかって世界中が大騒ぎになり、誰も彼もがセラミックスを乳鉢ですりつぶしていたとき、私は手を染めなかった。常温核融合のときにも関与しなかった。他にすることがあったからというよりも、長く地方の大学にいた関係で、誰かがやれることを人より早くするやり方は避けた。仮につまらないことであっても、手間と時間とお金がかかるからである。私の場合、重要なテーマに的を絞り、全精力を投入するより他に術がなかったのである。ここ20 年の間、私は超臨界金属流体の構造研究を行ってきた。水銀を温めると体積は膨張する。沸騰させないように圧力をかけながら、さらに温度を上げてゆくと、体積はますます膨張し、終いには気体となる。これに伴って水銀は金属から絶縁体へとその性質を大きく変える。研究者は皆、金属が絶縁体に変わるとき原子の並び方がどのように変わるかを知りたがった。これを調べようと決心したものの、実験は容易でなく、高圧容器や試料容器の問題など、克服すべき難問が山積していた。方向が見えてからも、また、この研究プロジェクトが文部科学省の特別推進研究に採択されてから後も、超臨界領域で精度の高いデータを得ることはなかなかできなかった。実験がうまくゆかないときには、一緒に実験をしている若い人達に長谷田先生のことを話し、この研究を完成させることはわれわれの使命であると言って励ました。自己を超えた研究、そのようなものが確かにある。

よき師にめぐり合い学問の大切さを教わった。私自身その一端を追体験することもできた。安心して学問のできるよい気風が、これから先も、京都大学のなかに生き続けることを切に望む。

(名誉教授 元材料工学専攻)